参政党支持層の研究
・参政党、東京都議選で3議席の衝撃
6月22日に投開票された都議会議員選挙で、参政党が3議席を獲得した。従前から同党の初議席獲得の予想は出ていたが、結果4人の立候補者のうち3人が当選(練馬、世田谷、大田)したのは、大番狂わせともいえる。
いったい、この党の支持者たち(支持層)はどのような人となりなのだろうか。がぜん興味が湧くというものだ。
私と参政党代表・神谷宗幣代議士との邂逅や、党としての性質については、拙稿『参政党とは何か?「オーガニック信仰」が生んだ異形の右派政党』(YAHOO!エキスパート、2022年7月)に詳しいので一読いただければわかりやすいだろう。今回は、とりわけ同党支持者の側にフォーカスして稿を進めていく。
・参政党支持者の横顔
私はこれまで、参政党支持を表明する支持者たちに、膨大な数とは言わないまでにも接触を試みてきた。その中には私の知人も居たし、すわ偶然出会ったパターンもあった。私がさも「自分も参政党には部分的に共感しているのですよ」と装うと、彼ら・彼女らは警戒心を解いて饒舌になる。フリーランス、専業主婦、零細自営業、個人事業、パートタイマーなどの人が目立ったが、明日食うに食わずや・・・という生活困窮者に出会ったことは無い。
参政党はユーチューブを含むSNSを宣伝の主要な「間口」とし、支持を広げているのは事実なので、漠然と若い世代から支持が多いのではないかと思われる節もあるが、実際にその支持者のボリュームゾーンは、私と同じアラフォー(40歳周辺)か、それ以上(50代くらい)までのミドル層である。あくまで私の印象だが、とりわけ中年の女性が多いと思う。
驚くべきことに、彼らのほとんどは参政党を支持する以前には、明確な党派性を持っていなかった。つまり、「これまで自民党や立憲民主党を支持してきたが、今回は参政党に入れる予定だ」という人はほぼ絶無であり、いい歳(40代、50代)にもかかわらず、生まれてこの方一度も投票したことがない、という人が相当程度多い。
彼らはその時々に支持政党を変え、固定的な支持政党を持たない所謂「無党派層」ですらない。そもそも、世の中には与党と野党があり、保守よりなのが自民党、その自民党と連立を組むのが公明党、野党にあっては進歩的なのが立憲民主党、社会民主党、れいわ新選組や日本共産党であり、その中間あたりに維新、国民民主党が居る―、などという新聞やニュースなどをある程度読んだり見ていたりすれば誰でも何となくわかっているだろう、政治的マトリックス(座標軸とも言う)が頭の中に一切存在していない。
だから、右翼とは?左翼とは?という漠然とした思想地図にも無知である。時の総理大臣ぐらいは知っているが、全国紙では朝日・毎日と産経がほぼ対置構造であるとか、そもそも衆議院と参議院の違いもあやふやで、日本政治や社会の大まかな構造に対して、驚くほど無知で無関心である。だからこそ、四十数年生きてきて、一度も投票に行かなかったのである。
・「無党派層」ではなく「無関心層」
このような人々は、「無党派層」ではない。しいて言えば「無関心層」である。この無関心層が人生で初めて投票に行くことで、参政党は伸びていった。実際、今回の都議選の投票率は約5.2ポイント上昇したが、この中には参政党の支持者が少なからず含まれていると私はにらんでいる。
参政党の伸長は、「既存政党への不満の受け皿」などとしてその原因を分析する向きがある。私は、これについては完全に的外れだと思う。そもそも、参政党支持者の多くは、与野党問わず既存政党がこれまでどのような政策・公約を言い、それが不実行に終わったのかなどの知識を有していない。
つまり彼らは、既存政党が何を言っているのかをそもそも知らないのである。前述したように、それ以前に与野党の区別も怪しい。既存政党への批判や不満は、或る程度その政党や所属議員らの政策や実現の有無を評価して、幻滅したり失望したりすることから生まれる感情だろう。だが、そもそも何も知らなければ、批判も不満もないのである。
だから参政党支持者は「既存政党への不満」を持つ人々ではなく、辛辣に言えば比較的長く生きてきて、人生の中で一度も政治的事柄に興味を持ったことが無かった「無関心層」であると言える。このような特色は、参政党支持者の多くに共通するものである。
・「ネット保守(ネット右翼)」とは全く異なる参政党の支持者たち
参政党はコロナ禍初頭の2020年4月に結党した。直後世情はコロナ禍がますます深刻になり、反ワクチン、有機農業振興(併せて学校給食への適応)、食品添加物禁忌、がん医療問題などを強く掲げて、ワクチンや食品添加物などを積極的に忌避する支持者らを獲得した。
コロナ禍がやおら一服したおおむね2023年以降は、とりわけ「日本人ファースト」を掲げ、特に移民反対、外国人問題(マナーの悪さなど)の解決、過去の日本を美化する歴史観などを訴えてきた。この一見すると外国人排斥や歴史修正主義に繋がりかねないとも思える主張は、それこそ私が永年、膨大な数を観察してきた「ネット保守(ネット右翼とも)」の主張や世界観とかなり重なるところがあるようにも思える。
ところが、私が接してきた参政党支持者たちは、私が知り尽くした「ネット保守」とは、似ても似つかない全く異形のものであった。
以下の画像は、2024年11月12日に、X(旧ツイッター)で、残照(残照寫眞)@zansyou 氏が撮影したものである。熱心な参政党支持者と思われる理髪店のシャッター部分に同党への支持を訴える寄せ書きのようなものがある。写真から類推すると、大阪市浪速区と思われる。この写真の文言が、参政党支持者の特徴を一目で象徴していると思うので、引用させてもらった。
拡大図に注目していただきたい。そこには、「八紘一宇」という言葉が強調され、ひときわ大きく書かれている。その下に、「世界はひとつ人類はみな兄弟(原文はすべてカタカナ)」と「戦争なき世界」という言葉が併記されている。
これらの単語(スローガン?)の併記は、極めて矛盾していることは分かるだろう。言わずもがな「八紘一宇」は、太平洋戦争中、日本のアジア侵略を正当化するための国家的スローガンであった。一方、「人類みな・・・(似たような標語を笹川良一氏が言っていたが)」「戦争なき世界」は、このようなかつての日本の侵略戦争の反省から生まれたものと考えるのが妥当であるから、これらの単語の併記は、何から何まで矛盾していることは、少しでも近代史や、そもそも新聞を斜め読みするくらいの生活習慣があれば、その違和感に気づくことができると思うのがふつうである。
ところが参政党支持者の世界観の中では「八紘一宇」と「戦争なき世界」という言葉が何の躊躇もなく共存しているのである。この理由はすでに述べた通り、参政党支持者の多くが、政治や社会の事象に徹頭徹尾に無知・無関心だったため、そもそも「八紘一宇」と「戦争なき世界」が対立概念である、という根本のマトリックスすら理解できていないからに尽きる。
・「聖徳太子」「徳川家康」「特攻隊」
彼らは現在の政治や社会の課題だけではなく、歴史にも完全に無知であり無関心であったため、このような「チグハグ」な世界観が平然と共存しえる。例えば以下の画像は、参政党が2025年から採用した公式ポスターである。
ここには、「聖徳太子」「天武天皇」「北条時宗」「徳川家康」「西郷隆盛」そして「特攻隊員」という歴史的人物(?)が描かれているが、その人物選定のイデオロギー的統一性は支離滅裂である。
私の推測では、かつて日本を守ってくれた偉人達を挙げたうえで、現代に生きる私たち(参政党支持者など)を奮起させるという意図が込められていると思うのだが、どれも雑学・エッセイレベルの歴史的検証に「すら」耐えうるものではなく、単に有名な歴史上の人物を羅列したに過ぎないように思える。
ネット保守(ネット右翼とも)は、このような矛盾を絶対に犯さない。ネット保守の多くが当世時流の保守系言論人の言説を真に受けているとはいえ、朝日新聞や毎日新聞や東京新聞などが「パヨク」であり、産経などを「愛国的」とみなす政治的マトリックスが頭の中に濃淡はあれど出来上がっている。
例えば「八紘一宇」という言葉が、戦後、前述した進歩的言論界隈などによって目の敵にされてきた事実を引用し、だからこそそういった歴史観を「自虐史観」といって批判する。それは「八紘一宇」というスローガンが軍国主義の時代に象徴的に使われていたことを踏まえたうえで、「あえて」それは、「決して糾弾すべき価値観ではなかった」と主張する。なぜなら太平洋戦争で日本は敗北したが、結果的にはアジアの解放が実現したからである―、という風に続く。
歴史的偉人についても、特攻隊員の顕彰は良いとしても、それならば特攻の祖・大西瀧治郎中将の名があがったり、日米開戦当時の首相・東條英機の再評価へとつながっていったりする。さすがに近代戦における「特攻隊員」の顕彰と、近代以前の「北条時宗」「徳川家康」を一緒くたに語る言説は、保守界隈狭しといえどもお目にかかったことは無い。
彼らネット保守の主張の正当性や妥当性は兎も角、ことほど左様にネット保守の中には、右に対置される左、自虐史観に対置される自国礼賛的歴史観、護憲に対置される改憲、自民党清和会や日本保守党に対置される日本共産党やれいわ新選組・立憲民主党、産経に対置される朝日や毎日・東京新聞・・・などといった政治的マトリックスが多少なりとも頭に入っている。
ところが参政党支持者の多くにはこれが「まったく」無い。政治的な右と左のマトリックスがわからない。世の中がどのような構造になっているか。漠然とでもどのような政治勢力の対立構造があるのか。一切合切このような事柄に無知・無関心で、四十年とか五十年を生きてきた人も、決して少なくはないのである。
ネット保守はある種の「疚しさ」を持っている。それは、戦後民主主義の中でぬくぬくと愛国心を軽視して人生を送ってきて加齢してきた自分自身への自責の念である。例えば「君が代の歌詞を知らなかった」とか、「漠然と日本は悪いことをしてきたと思ってきた」とか、「中国や韓国に謝罪しなければならない」といった戦後民主主義的価値観に、何ら疑問を持たないまま過ごしてきたという、彼らのこれまでの人生の中にある「不勉強」という怠惰―。つまり「疚しさ」を自覚しているのである。この疚しさを私は「ネット保守の原罪」と呼んでいる。
だからこそ彼らは知識豊富(?)な保守系言論人のユーチューブを視聴し、時には掲載雑誌や著書などを旺盛に購買して「勉強」しようとする姿勢がある(実際には、それは「積読」なのが多いのであるが)。ともあれ自らが戦後民主主義の中で愛国心に目覚めて「いなかった」落ち度への自覚があるからこそ、その妥当性は兎も角、「保守思想」「保守的世界観」を勉強しようと努力する傾向がある。
だが、参政党支持層はそうした「原罪」を全く自覚していないように思える。自らの落ち度を客観視し、反省するという最低限度の知識を有していない。だから彼らにとって「八紘一宇」や「特攻隊」という言葉が持つ意味は、「パヨクに抵抗する言説」ですらなく、「戦争なき世界」という、多幸的な世界観の延長線上にあり、単なる「良いスローガン」の一種でしかないのである。
・すべてに無自覚な参政党支持たち
彼らにとって「八紘一宇」という掛け声は、例えば「整理整頓」「節電節水」などと大して変わらないのではないかと私は思っている。そこにイデオロギー性は無い。
なるほど確かに自分の家は綺麗なほうが良いし、電気や水は節約したほうが環境にも財布にも良い。単にそのレベルのなかで「八紘一宇」が共存しているのである。だからネット保守のいう原罪を自覚したうえでの、“あえて”左翼やリベラルへの反論という意味を含意する「八紘一宇」とは、まるで次元が異なるのである。
このような政治的・社会的マトリックスが存在しないので、彼ら参政党支持者の中には、移民反対がやがて移民排斥に繋がったり、自国や自国民の美化が外国人の排除に繋がったりするかもしれない―、という自覚も無い。
そもそも差別とは何か、排外とは何かという思考訓練ができていないことがほとんどである。つまり辛辣に言えば「生まれたての赤ちゃん」と同じで、なんの政治的免疫も、なんのイデオロギー的耐性もないのである。ヒヨコが初めて出会った「動く大きな存在」を親だと思って追従していく動物本能に似ている。この場合の「親」とは、神谷代議士でもあるだろうし、はたまた同党が「ボードメンバー」と呼ぶ幹部層なのかもしれない。
自分が差別や排外主義につながるような言説を弄しているという自覚がほぼゼロなのが、参政党支持者の特徴のひとつであると私は強く思う。そもそも差別や排外主義という言葉を理解していないのかもしれない。よしんば自らが差別や排外主義を行っているかもしれない、というのはそれに反対する言論や勢力の抵抗によってはじめて相対化されるものであろう。世界のマトリックス(座標軸)に全く無知ならば、相対化も何も自分の価値観だけが全てなので、批判されても何も感じない可能性もある。
自分と自分に相対する世界を「相対化」しているからこそ、自らが行っている行為が「行き過ぎ」「過激」などであることが分かるのではないか。少し同情した見方をすれば、「あえて」それ(左翼・リベラル批判)を実行してきたのがネット保守界隈である。
物事を相対化することが「出来ない」というくらいのリテラシーしかもっていないのであれば、永遠に自らの言動が「一線を越えた差別や排外主義である」、ということさえ自覚できない。そもそも右と左、与党と野党の違い、差別と常識の区別すら、これまで生きてきた中で体得していなかったからだ。
・動画で真実
私が過日、或る参政党支持者と酒席を共にした時の話である。ユーチューブで参政党の動画を見て、熱心な支持者になったというその人は、図らずも私と同い年の女性だった。数年前に離婚して、現在は飲食業をやりながら二人の子供を育てているということであった。
「(ワクチンの副反応などについて)本当のことを知りたいと検索していたら、参政党の動画に行き当たって、感銘を受けた。日本は外国人に侵略されていると思う。私が勉強した結果、これが真実だと思うに至った」
かいつまんでいえば彼女はこのようなことを言った。彼女は高校を卒業して以来さまざまな職を転々とし、あるとき一念発起し、独学で宅地建物取引主任者(宅建)に合格するほどの努力家であった。しかし彼女の世界観の中では、「世の中のこと」を勉強する手段は参考書ではなくてユーチューブなのであった。
政治や社会の実相を勉強するときに、これが定番という書籍のスタンダードは残念ながら現在提供されていないと言える。その間口のほとんどは、専門家と謳っていながら、実際は陰謀論やデマに傾倒しているともされる、「自称評論家」などが主催するユーチューブである。
そこに触れれば、前提知識が皆無の彼女・彼らたちは、たちまちそれが「自分が発見した真実」と感じて、熱心な参政党支持者になっていくのだろう。その主張がいかに差別や排外主義につながる危険性があっても、その言葉自体の持つ意味や政治的立場が分からないのであれば、躊躇の材料にはならないのである。繰り返すように彼らにとって「八紘一宇」は「整理整頓」と同じニュアンスなのである。
・政治に無関心でも生きていける日本社会
ここまで書いて、少なくない読者は、「新聞の斜め読み、一面の記事を雑駁に見るという作法やリテラシーすらない人々が、現代の日本で“適正”な社会生活を送れるというのは、本当だろうか」という疑問を有すると思う。
つまり政治や社会のことに全く無知・無関心でいながら、一端の社会生活を送ることが果たしてできるのか?という疑問である。だがしかし、戦後日本社会は永年「政治と宗教の話はするな」などと言われてきたように、政治的リテラシーがゼロでも、社会生活を送ることが出来る世界になって久しい。
参政党支持者の中には、高校を出てからすぐに社会人になった、という人もいるが、四年制大学を卒業して、社会に出たというような人も少なくない。しかし、戦後の日本社会にあって、受験や入社試験で、「現代政治の課題や問題」を問われることは非常に少ないどころか、ほぼ絶無である。ましては太平洋戦争に至る日本近代の失敗について、あなたはどう思うか?かつての侵略戦争をどう思うか?と問われる場面も、ほぼ皆無に等しい。
つまりはこの国では、政治観および歴史観や歴史的教養と、社会的地位は相関しないのである。政治や歴史に全く無知でも、社会的地位を得たり、客商売をすることは容易に出来るのである。彼らはみな、コミュニケーションにあっては優秀の感を受け、むしろ人当たりがいい人ばかりである。そうでなければ、客相手のフリーランスや自営業で成功することはできないだろう。社会的成功と、最低限度の政治観や歴史観が、この国では完全に分離されている。
私は参政党支持者と多く会ってきて、彼ら彼女らの多くが「ごく普通の市井の人々」であることを痛感した。彼らは客商売の現場や、或いは会社組織の職場でむしろ愛される人々である。相手のことを思い、コミュニケーションをとる能力があるからだ。しかし、それと歴史観や政治観は、ことさら歴史や政治のことを話題にすることを避けてきた目下の現代日本においては、必要がない。むしろそんな事柄に興味を持つのは、対人コミュニケーションの中ではマイナスとされてきた。
・「無垢」の人々が目覚める
彼ら「無垢」の人々が、参政党のユーチューブを含むSNSなどで「政治に目覚めた」ときに、初めてそのむき出しの差別性や排外性が露(あらわ)になる。これは自覚的に自虐史観と闘ってきたネット保守とはまるで違うものであり、純朴な、本当にイデオロギーとは関係のない、生活感覚のようなものだ。
参政党支持者のこうした「無垢から生まれた世界観」をどう捉えればいいのか。私としても悩んだ。結論めいたものがあるとすれば、まさに2025年の今年が戦後80年であることを踏まえても、それは「過去の戦争経験の風化」を前提としながらも、もっと別種の、ある種の「何も考えないで生きてきた人々」の可視化だと思う。
すなわちこのYAHOO!ニュースや、それに関連する新聞・雑誌・テレビの報道や内容を流し見でも触れていれば、世の中の人々はある程度、「政治的真贋」とか「政治的公平性」の正邪や高低の云々が分かろう―、という図式がはなから通用しない人々が、この国には数百万人という規模で存在するという驚くべき事実だ。
社会人として普通に生きていれば、おのずと政治や社会のことに関心を持たざるを得ない―、という少なくとも従前から私が持っていた「社会通念上」ふつうに思える人間の成長段階説は、嘘だったのかもしれない。日本社会には、齢四十,五十を経ても、「与党と野党の区別がつかない」「右翼と左翼の区別がつかない」「民主的価値観と差別や排外主義の区別がつかない」という人が、かなりの割合で存在するのである。それでも彼らは、地域社会の中できちんと自営業などをして、客商売をして、愛される存在になっているのである。
そういった人々は、これまで選挙に行くことが無かったので、可視化されなかった。それがユーチューブを含むSNSを間口にした場合、初めて得票として可視化されたのではないか。そうした層は繰り返すが、「無党派」ですらなく「無関心層」である。何も知らない、何も興味がない、何も知識がない層の受け皿が、SNSを間口とした参政党支持者の典型ではないのか。
・知の溶融の結果、としての参政党支持層
「知の溶融」―。この言葉が、参政党の躍進について最も適当な形容と思う。政治や歴史や社会のことを何も知らないで、何の興味もなく生きてきた人々が、ユーチューブを含むSNSを間口にして、参政党支持者として目覚める。だがそれは、参政党の選挙戦術の奏功だけに責任を求めてよいのだろうか。
とにかく、政治のことには無関心を貫いたほうが良い―。とにかく、社会問題には特段の関心や立場を示さないほうが良い―。こういった「無難」「無摩擦」「無感情」な価値観が、学校教育でも職場でも、ありとあらゆるところで「それこそが処世術として正しい」などと蔓延してきたのが戦後日本社会ではないのか。
よって、対立する概念を持った人々との議論(ディベート)はおざなりにされ、なにが社会的に正邪なのかを考える材料も提示しないまま、もはや決まった月給をもらうだけのサラリーマン然とした学校教職員に、真の主権者教育とか、民主主義的価値観の醸成とか、批判的精神の育成といった根本的な「教育」を期待することはできずらいのではないか。
このように戦後民主主義を謳っておきながら、その実、民主主義の大切さ、平和主義の大切さ、人権の重要性を身体感覚として、徹底して浸潤させなかった戦後日本社会の宿痾が、「あらゆることに無知で、あらゆることに無関心」でいて、「社会人としてはそこそこ立派」な参政党支持者に、力を与えることになったのではあるまいか。
さて私の推理はこれくらいにする。いずれにせよ、戦後80年をして、少なくとも、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を掲げてきた私たちの生きる戦後日本という枠組み自体が、実はかなり前からドロドロに溶けていて、ややもすれば陰謀論やトンデモと溶融して、何の知識も教養も反省も視座も価値観も無い「市井の人々」が、投票所に行って「一票」を投じることが、既存政党の政策の吟味すら難しい層に刺さり、「参政党」と書かせる動機になったのだとすれば、「戦後民主主義」の末路という結論と併せて、背筋が凍る破滅の恐怖感を、日々痛感しているのである(了)。