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渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

映画「トップドッグ」(1988)

2025年06月28日 | open

TOP DOG【Movie 1988】 


1987年を映像に収めている。
世界中でロードレース人気
が最高潮だった頃。オラン
ダのTTサーキットアッセン
には世界グランプリを観る

ために20万人の観客が押し
かけていた。
日本国内でもレース人気と
共に、バイク人気は頂点の
頃だった。1985年の鈴鹿
8時間耐久レースでは3日

間で約30万人を動員した。
1987年は日本経済はバブル
の上昇期にあたる。

バブル経済の頂点は1989年
で、翌年の金融引き締めか
ら日本経済は真っ逆さまに
急落し、連鎖倒産や企業破
綻による経営者の自殺等が
相次いだ。
その後、ずっと経済混迷と
国力下降は雪崩のように続
き、日本は「失われた35年」
に間もなく入ろうとしてい
る。
この1987年頃というのは、
日本だけでなく、先進国諸
国は一番活気があった頃だ。
時代はまだ東西冷戦時代で、
ドイツは西ドイツと東ドイ
ツに分裂していた。
この頃は、当然、モーター
サイクルレースの世界は
ロードレースだけでなく、
あらゆるジャンルの二輪レ
ースにおいて、日本車が世
界の頂点に立ち、日本車で
なくば世界チャンピオンに
なれないという時代の真っ
最中だった。
それは1975年から2020年ま
で継続した。
今は、日本車に乗ると最下
位である。
それはレギュレーションが
西欧メーカー優位に働くよ
うな作為的な変更が開催者
によって差別排外主義的に
為された事が大きな原因だ
が、50年以上前から実は西
欧レース開催者はそうした
「日本車締め出し」の為の
ルール変更を重ねて来た。
気筒数変更やギア数変更等。
しかし、その都度日本の二
メーカーはそれを跳ねの
て規定レギュレーション
で突き抜けた世界一の二
車を作り続けて来た。
だが、今はその地力が日本
メーカーには無い。
マシン作りの方向性もコン
ピュータデータのみから車
作りをするという方式で見
誤り、世界チャンピオンが
乗っても転ぶ二輪車しか作
れなくなった。
「世界一安全で、速い」
二輪は日本人には作れなく
なったのが現実だ。
世界頂点から世界最下位へ。
世界第二位の経済大国にし
て教育立国だった時の日本
は、産業分野においても作
る物は全て世界一を極めて
いた。
なぜ、現在のようになった
のか。
それはシステム上の変化の
ためではない。
教育と政治の荒廃が基盤に
あり、日本人自身が実力の
無い中味に変質したのが大
きな原因だ。
国家も産業も教育も医療も
国を動かすのは人間だから
らだ。機構という器が勝手
に動いて人間を規定するの
ではない。ロボット社会で
はないのだから。
人間がダメだから社会も国
もダメになる。
その定理を今日本はまっし
ぐらに証明し続けている。

本作品はヤマハの平忠彦選
手を追った作品である。


WGPでは先年の順位通りに
翌年ゼッケンが決められた。
バリー・シーンの特別認可
の#7を除いては。
だが、平選手とヤマハは企
業戦略としてメインスポン
サーの資生堂テック21のイ
メージを強調するため、特
別認可申請により21番を着
て走っている。
これはバリーの7番とフレデ
ィ・スペンサーが好んだ19
番以外には見られなかった。
その後、ケビン・シュワンツ
が34番をプライベートナンバ
ーとし、2000年代に入ると、
特別申請認可による個人ナン
バー制が一般化した。
バレンティーノ・ロッシが常
に46番であるように。
1980年代においてはそうした
事例は稀だった。

1980年代に21世紀の現代に
続く多くの事が開始された。
その時代に生きる者たちは、
社会のあらゆる分野で開拓者
だったといえる。


最高の時代の、最高の日本の
男は、最高の顔をしていた。

彼だけではない。
日本人の多くが、こうした
自身に満ちた落ち着いた不
敵な笑みを浮かべてい
た。
瞳の奥に強い意志をたたえ

ながら。

なお、本作品『トップドッ
グ』のオープニン
グでヤマ
ハの平忠彦選手がレーシン

グウエアのファスナーを締
め、暗闇から起ち上って歩
いてサーキットのパドック
の光の中に起つシーンの描
写は
1982年12月公開の角川
映画
『汚れた英雄』のコピ
ー映像表現だ。
『汚れた英雄』では、主人
公北野晶夫を当時29才だっ
た草刈正雄が演じ、レース
シーンは撮影時25才の平忠
彦選手が吹き替えで演じた。

本作品『トップドッグ』の
オープニングは、まるまる
『汚れた英雄』のあの素晴
らしいプロモーションビデ
オの映像作品のような映

美を駆使したオープニング

シーンのオマージュコピー
ある。

角川春樹が初めてブルーに
感光するフィルムを使った。
北野ブルーはそれの模倣だ。
映画『汚れた英雄』はあらゆ
る「世界初」が実行された。
走行する3台のレーシングマ
シンを真横から撮影した映
像などはハリウッドにさえ
存在しなかった。
ただ一つ残念な事は、『汚
れた英雄』はフィ
ルムを劇
場公開で観るのと
ビデオや
DVDやブルーレイ
化された
メディアで観るのと
では、
まるで色調が異なっ
て観え
てしまう。

角川ブルーの世界初の青色
基調の色彩は、劇場で観た
らまるで朝霧の中で言葉に
できない美しい絵を見るか
のようだった。
だが、メディア版では色調
補正のためか、クリアにな
り過ぎて、青が死んでしま
っているのだ。
角川春樹も後年デジタル化
によ
るブルー感光の妙技が
減殺
されるとは予想もして
いな
かったのではなかろう
か。


 

 



 


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