其の三十二
海風が強くなる。
海と天が重なる頃、弟達の入り江に腰を下す。
ちょっと頑張り過ぎてるかな、っていう時は頭冷やさないとね。
だけど、この頃の疲れは前のそれとは違うもの。
目指していたものがぼんやりとでも見えてきた。
向かって走る俺は、疲れすらも心地よい。
父上に放り出されても、そしたらお義母さまと生きていけるように。
そして、もしも国王などになれるものならば、
父上よりも、とは言わないけれど、
同じ位にはまともな国王になりたいんだ。
だからとりあえず教えてもらえるものは、
なんでも教えてもらおうって気になってる。
夕闇に包まれる前の、一瞬の世界。
沈む太陽と昇る月、微かに瞬き始める星と名残の陽射し。
波は静かにうねりながら、大気を金に染めてゆく。
風に乗り潮の香りが立ち昇り、
明日も頑張んなきゃって気になってくる。
「王子さま?」
ぼけっ、と口なんかあけて海を眺めている背中に声がかかる。
「あ、先生。」
今日は先生、授業は無かったはずだけど。
なんだか、すっごく疲れた顔をしていらっしゃる。
風がなぶる後れ毛を抑えながら、先生はじっと海に目を向けられる。
「どうなさったの?」
「少し息抜きしてるんです。先生は?」
柔らかく髪をなびかせながら、心地よさそうに風に向かう王子様。
その穏やかな声音に、今まで上がり続けていた血が
ゆっくりと下がってくる。
そうやってただ微笑んでいるだけも、人の心を癒される。
なにか不思議な力でも、このお方はお持ちなのかしら。
「そうですわね、わたくしも。」
そしてしばらくわたしたちは何も言わず、ただ空と海を眺めていた。
「あの彼方に。」
不意に王子様が、水平線の彼方を真っ直ぐに指し示す。
「先生のお国は、あるのですよね。」
そう言って、こちらに目を向ける。
「そうね、ここからは遠すぎて、見えはしないけれど。」
「そりゃそうだ。」
王子様につられて、わたしも笑い出す。
「どうして、来てくださったのですか?」
「え?」
口が引き結ばれて、ふざけている口調が消える。
「こんな処まで。」
「どうして、そんなことを?」
「だって、多分、俺達の国とかはお話にならないんですよね。
先生のいらしたような国からは。」
「なぜ、そんなことを?」
「いえ、決してこの国を卑下しているわけじゃないんです。
ただ、色々本とか読んでいるうちに、
そんな風に思われているらしいっていうことが。」
わたしはどう言ってよいかわからない。
この場を切り抜けるようなことを言うのは、容易いことだろう。
でも、この方の真摯な問いかけには、
それは許されないような気がする。
たとえ、それがどのような答えであっても、
この方はきちんと受けとめて、理解しようとしてくれることだろう。
それほどの豊かさを備えはじめていることが、
わたしは分かっている。
そんな気にさせてしまうのも、この方の器なのかもしれない。
「そんな風に思っている方々も、確かにいたかもしれませんわね。」
「うん、だから、なかなか家庭教師が見つからないって、
父上がぼやいていたわけですよね。」
「そうね、知らないもの、違うものを受け入れられない
下らない人というのは、どこにでもいるものだから。」
「じゃあ、先生は下らなくなかった。」
「いいえ、似たようなものよ。
・・・いえ、もっと酷かったかもしれないわね。
何にも知らない自分を棚に上げて、自尊心ばかりは人一倍で。」
王子様の前、なにをわたしは話しているのかしら?
「じゃあ、なんでいらしたのですか?異国への興味?
それとも慈悲のお心?」
「そうね、興味・・はあったかしら。
慈悲の心などは、生憎持ちあわせていなかったけれど。」
二人で少し笑い、王子は言葉を続ける。
「でも、それならば、こんな遠くでなくともよかったでしょう。」
「そうね、でも、遠いところにいければ、と。」
「ふうん。」
「何もかもが全て変わってしまうような、
故郷なんて思い出すことすらできない位、
遠いところに行きたいと、ただそれだけ思っていましたわ。」
いつもの厳しそうなお顔でもなく、
ときたまの艶やかなお顔でもなく、
穏やかだけれど寂しそうな先生。
俺は余計なことを聞いてしまったみたいだ。
「とても失礼ですわね、わたし。」
「 ・・・でもね、来てくださったのが先生で、よかったです。 俺。」
「え。」
「だってさ、もう、どのくらいいけ好かない奴が来んのかなって
弟達と手ぐすね引いて待ってたんですよ。」
そういって、王子さまはにやりと頭をかく。
「まあ、恐ろしいこと。」
「でもさ、いらしたのが女の方じゃあ、
悪戯するわけにもいかないでしょう。」
「わたし女で、よかったですわ。」
先生に、やっといつもの悪戯っぽい笑みが戻る。
「・・でもさ、そういうことばかりではなくて。」
「では、どういうことでしたの?」
「うん、なんていうかな。先生、あんまり俺のこと、
子供だからって容赦しないじゃないですか。」
「なんですの、それ。」
「いや、子供だからとか王子だからとか、
色々な理由がついちゃうでしょ、俺なんかの場合。
でもって、この国だって野蛮だからとか田舎だからとか。
なんか、そういう風にきっと色眼鏡で見られるんだろうなあ、 って思ってたからさ。」
そうね、恋に落ちる前のわたしならばそうだったのかもしれない。
けれども、あの方が愛したのはわたしの家柄でも財産でもなく、
わたしが愛したのはあの方の王位継承権ではなかった。
そして、私達が求めたのは国ではなかった。
自らの目で頭でその本質を見つけなくては、
何も見えてはこない。
誰も教えてはくれないということを、
わたしはあの方から教わったのかもしれない。
でも、この方は教えられずともそれを知っているのだわ。
「そんな下らないことにかかわっている余裕は、
無かったのでしょうね、わたし。」
驚いたように瞳が見開かれる。
「忘れたいことや捨ててしまいたいことが、沢山ありすぎて。」
「ですけれども、王子様のようなお方でよかったのは
わたくしの方ですわ。
女だからっていうようなお方でしたら、
きっと一日も持ちませんでしたもの。」
「じゃあ、おあいこってことですね、俺達。」
わたしたちは、満足そうに海に目を向けなおす。
お若い王子様ですら、このようであるというのに。
あの方はなんと愚かなことなのだろう。
海風のせいなのか、昇った血はすっかり静まった。
そして、わたしは海に落ちゆく夕陽のように、
情けないまでの寂しさに沈んでいった。
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