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【後編】ミュージックビデオにおける反/非視覚性—— ヨルシカにおける<顔>の不在

要約

ヨルシカのミュージックビデオに広くみられる「顔の不在」は、≪痕跡≫としての顔を示すものであり、言語や意味に分節化された意味作用システムの外部の可能性を示している。社会において我々は他人と顔を合わせることで自己を再帰的に認識しているが、素顔の隠された顔はこうした自己把握を断念させ、わたしと他者の共同的な意味の構造とは別の可能性を浮かび上がらせる。ヨルシカのミュージックビデオは、顔でありながら顔ではない≪痕跡≫としての顔=「現れることさえできないほど薄弱な非現象」を我々に突きつけることで、意味作用システムの外部への道を拓く。そして、そうした裸形の現れは言葉や意味によって分節化されない、<ひと>という存在の原型を救い出す契機となるのである。

<眼>の否定から<顔>の不在へ——YOASOBIからヨルシカへ

 前編ではYOASOBIの「夜に駆ける」のミュージックビデオにおける眼を否定的に描く表現に注目し、これらの意味するところを原作小説や歌詞の描写も参考にしつつ論じた。こうして明らかになったのは、諸感覚や論理が鍔迫り合う様相であり、これらが衝突しながら同居する場としてのミュージックビデオの在り様である。ここで反視覚的表現は、視覚の特権性に対する反省を惹起すると同時に、翻って言語=論理の限界を思い起こさせ、聴覚に限定されない音楽をめぐる多元性に道を拓く役割を担っていた。
 後編で焦点を当てるのは、ヨルシカのミュージックビデオである。YOASOBIの「夜に駆ける」同様、彼らのミュージックビデオにも眼が描かれない「眼の不在」ともいえる諸表象が確認される。だが、これらのミュージックビデオにおける不在の領域は「眼」に留まらない。後にみるように、ヨルシカのミュージックビデオにおいては、顔全体がインクで塗りつぶされている描写や、首から上が透明で見えない表現などが多々出現する。すなわち、ここでみられるのは「顔の不在」ともいえる表象であり、こうした「顔」をめぐる否定的あるいは不在を印象づける表象がヨルシカのミュージックビデオ群に通底して見られる重要なモチーフとなっている。
 本論は、こうしたヨルシカのミュージックビデオにおける「顔の不在」に焦点を当て、これらがいかに描されているか、いかなる意義を有しているかを論じる(注1)(注2)。結論を先取りすると、ヨルシカのミュージックビデオ群において共通してみられる「顔の不在」は、≪痕跡≫としての顔を示すものであり、言語や意味に分節化された意味作用システムの外部の可能性を示しているのではないか、というのが本論の論旨である。社会において我々は他人と顔を合わせることで自己を再帰的に認識しているが、素顔の隠された顔はこうした自己把握を中断させ、わたしと他者の共同的な意味の構造とは別の可能性を浮かび上がらせる。ヨルシカのミュージックビデオは、顔でありながら顔ではない≪痕跡≫としての顔=「現れることさえできないほど薄弱な非現象」を我々に対峙させることで、意味作用システムの外部の可能性への道を拓く。そして、そうした裸形の現れは言葉や意味によって分節化されない、<ひと>という存在の原型を救い出す契機となるのである。

ミュージックビデオにおける眼・顔の不在

 まずはヨルシカのミュージックビデオにおいて実際にどのような眼・顔の否定・不在が見られるかを概観したい。対象は2017年4月(「靴の花火」の発表月)~2025年3月(「へび」の発表月)にYouTubeに投稿されたミュージックビデオであり、これらのミュージックビデオに見られる眼・顔をめぐる否定的表現あるいは不在を印象付ける表象である。以下、これらが具体的にどのように表現されているかを三つの類型から確認する(注3)。

(1)焦点化を免れる眼・顔

 これはYOASOBI「夜に駆ける」のミュージックビデオにおいて見られたものと同様の類型である。顔自体はしっかりと描写されており、眼や鼻などの顔の細部を観察するにあたっての障害物も一切ないのにもかかわらず、眼は描かれないという表現であり、具体的には「準透明少年」、「ノーチラス」、「花に亡霊」、「春泥棒」、「太陽」のミュージックビデオで確認できる。

 「準透明少年」は、楽曲タイトルが示す通り、主人公の少年が「目に見えぬ僕は謂わば準透明だ」と「準透明」であることを歌った楽曲である。ミュージックビデオでは、リアルな背景と対照的に主人公はモノクロで描かれているが、これによって彼の「準透明」であるさまが表現されている。そして彼の眼は下のとおり彼の長い前髪で隠され、焦点化を免れている(注4)。

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ヨルシカ「準透明少年」

 「ノーチラス」は明確にコンセプチュアルな楽曲であり、ミュージックビデオでは「エルマ」と「エイミー」の音楽をめぐる物語が感動的に描かれている(注5)。ここで、ミュージックビデオにおける主役であるエルマ(少女)の眼ははっきりと描かれているが、エイミー(少年)の眼は描かれない。エイミーの眼は「準透明少年」同様、長い髪で隠され顕になることはなく、涙が頬を流れる描写こそあれど、眼を直接見ることはミュージックビデオを通じて断念させられている。「ノーチラス」同様、「花に亡霊」のミュージックビデオも二人の人物が登場し、一方の眼が焦点化されていないという構造になっている。同ミュージックビデオの前半において、少年は横顔などしか映されず眼が焦点化されていないが、これは少女の眼がはっきりと描かれているのと対照的だ。ただし、本楽曲は映画『泣きたい私は猫をかぶる』の主題歌でありミュージックビデオには映画本編の映像が使用されているゆえ、同作はヨルシカオリジナルのミュージックビデオというわけではない点は注意されたい。

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ヨルシカ「ノーチラス」
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ヨルシカ「花に亡霊」

 「春泥棒」は、桜を妻の命のメタファーとして描き、その散っていくさまを、まさに亡くなっていく妻の主観から描いた作品である(注6)。だが、あるいはそれゆえに、この妻の視線が夫の顔と直接交わることはなく、ミュージックビデオ中、夫の眼が描写されることはない(そして、妻の主観視点であることから明らかなように、妻に関しては眼は言うまでもなく身体自体描写されることはない。)。一瞬、彼の顔に焦点が当てられるカット(下2枚目参照)があり、この口の開き方からは、彼が優しい笑顔でいるような状況が想像できるものの、ここでもやはり眼へのアクセスは断念させられている。

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ヨルシカ「春泥棒」
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ヨルシカ「春泥棒」

 「太陽」は、上の4つとはやや異なり、「眼」というよりはそもそも「顔自体」が焦点化されていない作品である。同作はアートディレクター永戸鉄也氏が「太陽」をテーマにコラージュ作品を制作する過程を描いたミュージックビデオであり(注7)、このことが顔の描写ぶりにも影響を与えている。すなわち、ミュージックビデオでは「顔」に代わり「手」がフォーカスされているが、これは、「制作」、そして「制作するものとしての手」への注目を意図しての演出であると考えられる。制作=ポエーシスの場面において相対的に重要性の低い顔については焦点化をされず、より重要な手に焦点が当てられているのである。

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ヨルシカ「太陽」

(2)塗りつぶされる眼・顔

 第二の類型は、眼にとどまらず顔全体に関わるものであり、顔全体が何かに塗りつぶされていることなどによって隠されている描写である。以下でみるように、「靴の花火」、「ただ君に晴れ」、「藍二乗」、「パレード」、「心に穴が開いた」、「だから僕は音楽を辞めた」、「雨とカプチーノ」などの多くのミュージックビデオで確認できる描写であり、また、その隠され方にもいくつかの似通ったパターンが認められる。

 この類型は、早くもヨルシカ最初期の楽曲である「靴の花火」において確認できる。ミュージックビデオ全編を通じて少女の顔が明らかになることはなく、サビでは顔に「×」の印が付き、顔のあたりが総じて背景と同化し透明化されてしまっている。

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ヨルシカ「靴の花火」

 「ただ君に晴れ」では、学生の顔は青いインクのようなもの(注8)で覆われて隠されている。このインクは顔全体に及んでおり、彼女の表情の一切を我々は窺い知ることができない(さらに言えば、このインクは顔を超えて首や肩周りにもみられ、広範囲を覆っていることもある。)。
 「ただ君に晴れ」と同様、「藍二乗」に登場する男性の顔もまた同様にインクのようなもので隠されている(インクの色も青・白がメインであり「ただ君に晴れ」と類似している。)。ただし、前者がいわば「デジタル」なインクで覆われているのに対し、「藍二乗」で描かれるインクは絵の具のようである。実際、絵の具で描かれた絵画のようにインクが滲み、それが涙のようにみえる箇所もある。
 「パレード」もまた同様インクによって顔が覆われる描写が見受けられる。インクの質的には「藍二乗」のそれに近いが、「藍二乗」のインクが絵画に使われる絵の具のようなものであるのに対し、「パレード」はもっぱら文字を書くためのインクであるという違いがある(実際に、その色も黒に近い濃い紺色となっており、また、その垂れ方も絵の具というよりは墨のような垂れ方である。)。

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ヨルシカ「ただ君に晴れ」
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ヨルシカ「藍二乗」
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ヨルシカ「パレード」

 「心に穴が開いた」における顔は、「靴の花火」のような透明化される顔と、「藍二乗」などのようなインクで隠される顔の、ちょうど中間に位置づけられる。同作中の操り人形の顔はくりぬかれているようであり、一見、背景と同化しているように錯覚する。だが、注視すると背景の色とは異なっており、その色は青や水色など、いくつかのレイヤーを持っていることが分かる。つまり、この顔は一見すると透明であるが、実のところインクによって隠されているのであり、逆にインクによって透明化が試みられているとも言える。

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ヨルシカ「心に穴が開いた」

 顔を隠す表現手法としては、インクのみならず、顔が火の玉(?)、魂(?)のような形のオブジェクトによって隠されているものもある。「だから僕は音楽を辞めた」に登場する男性の顔は、この魂のようなオブジェクトによって隠されており、同様の描写が「雨とカプチーノ」においても確認できる。

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ヨルシカ「だから僕は音楽を辞めた」
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ヨルシカ「雨とカプチーノ」

 ここまで言及してきたパターンとは異なるものとして、「夜行」のミュージックビデオも挙げておきたい。同作に登場する男女の顔の上には、乱雑な書き跡のようなものが描かれており、これによって顔全体が隠されている。

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ヨルシカ「夜行」

(3)仮面によって隠される顔

 眼・顔の不在という意味では、仮面を被っており顔が隠されている描写が三つ目の類型として措定できる。「思想犯」に登場する男性は仮面を被っており、その素顔が明らかになることはない。後半、彼はなかなか外れない仮面を力づくで剥ぎ取るものの、仮面の下にもまた別の仮面が存在しており、結局彼の顔が顕になることはない。「都落ち」に登場する女性の顔もまた仮面のようなもので覆われている。仮面は花弁のようなものから作られており、「思想犯」の仮面とは異なり口元や頬の一部は覆われていない。だが、眼の周囲は仮面でしっかりと覆われ、これがミュージックビデオ中に顕わになることはない。

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ヨルシカ「思想犯」
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ヨルシカ「都落ち」

小括

 以上、ヨルシカのミュージックビデオにおいてどのような眼・顔の否定・不在の表現がなされているかを三つの類型に整理して確認してきた。
 (1)の類型については、前編の考察と同様、その表現は心情の理解と密接に結びついていると推察できる。例えば「準透明少年」の「誰かに気付いてほしくて歌っている」というフレーズからは彼の孤独な状況、他者からの承認を十分に得られていない状況が窺えるが、そうした彼の状況が眼の非焦点化という描写に繋がっていると推測できよう。あるいは「ノーチラス」におけるエイミーの眼が隠されている描写にも同様のことが言えよう。エルマはエイミーの訪れた土地を追いかけるように訪れるが、エルマはエイミーに直接会うことは叶わない。つまり、ここでエイミーの眼が描かれないことは、二人の間にどうしても横たわる距離の暗喩、エイミーの心情を直接知ることのできないエルマのもどかしさの表れであると考えられないだろうか(注9)。
 なお、上で見てきたように、眼の焦点化されていない状態、と一言で言っても、その表現のされ方には微妙な幅がある。眼だけが隠されており、口や鼻は焦点化されているもの(=逆説的に眼を特権化しているもの)、眼も口も鼻も隠されているもの(=顔の特権性を換骨奪胎し身体の顔ではない部位に重点を置くもの)など、それぞれのミュージックビデオのメッセージの内実に依って、その表現ぶりには微妙なバリエーションが見られる。
 (2)の類型については、非常に多くのミュージックビデオで見られ、また、その表現ぶりも非常にユニークなものであり、量・質ともに際立っている類型であるといえる。だが、この類型で見られる描写は、前編でその意味を考察した(1)と異なり、如何なる意味・意義を有しているかを読み取ることがその表現ぶりを確認するだけでは困難である。したがって、次節以降では特に(2)の類型に焦点を当て、その意味するところの解明を試みる。
 なお、(1)同様、(2)の類型についてもその中にはさまざまなバリエーションが存する。それは顔が透明化するケースから顔の上に何らかのオブジェクトが置かれるケースまでグラデーションがあり、後者についてはさらにそのオブジェクトがインクのようなものか、魂のような形をした物体か、などのバリエーションがある。これに付随して、隠される顔の範囲にも微妙な差異が見られる。「ただ君に晴れ」において覆われる範囲は顔に留まらず、首や肩までもが覆われている一方、「パレード」でインクがかかっている場所はもっぱら眼の周囲であり、口については覆われていない。
 (3)についてはその数は多くなく、特殊な類型である。また、ここではあくまで表層的な分類でもって二つの楽曲を同一のカテゴリーに置いたが、それぞれの楽曲でその描写の意味するところは大きく異なっているように思われる(「思想犯」はジョージ・オーウェルの『1984』から着想を得ていることから鑑みると、ホックシールドにおける「深層演技」のごとく自らの内面・思想をも秘匿する事態を表現しているのに対し、「都落ち」に登場する女性は同楽曲が「万葉集」から着想を得ていることから鑑みると日本の古代〜中世の皇女であると考えられ、ゆえに同ミュージックビデオ中の仮面は平安時代の「衣被」のような役割を果たすものだといえる。が、以上はあくまで推測の域を出るものではない。)。したがって、この類型については深追いをせず、ヨルシカのミュージックビデオ群において仮面の表現が用いられている楽曲が複数あることを確認するにとどめたい。

ヨルシカにおける顔の不在——≪痕跡≫としての顔

 以上、ヨルシカのミュージックビデオにおいて眼・顔の否定・不在の表現がいかに展開されているかを確認してきた。それらのうち特に注目したいのは第二の類型にかかる描写である。それは、繰り返しになるが、①ヨルシカのミュージックビデオに特有の特徴的な表現であり、②彼らの映像作品の多くで確認できる描写である、すなわち、これらは質・量のいずれからみてもヨルシカのミュージックビデオにおいて重要なモチーフである。
 以下、こうしたヨルシカのミュージックビデオにおける顔の否定・不在の意味・意義を検討する。検討にあたっては、顔をめぐる思想を展開した哲学者=エマニュエル・レヴィナスと、彼の議論を一つの手掛かりに『顔の現象学』を著した鷲田清一の議論を参照する。特に鷲田の『顔の現象学』には多くを依っており、顔の哲学的考察はほぼ彼(及び彼が影響を受けているレヴィナス)のアイデアに依拠していることをはじめに断っておく。

顔の「遠さ」——<わたし>は<あなた>を知ることはできない

 「顔」の概念を軸に思索を展開した哲学者にエマニュエル・レヴィナスがいる。彼は「顔(visage)」を「<他者>が私のうちなる<他者>の観念をはみ出しながら現前する様態」(注10)と、他者の様態を示すものとして定義づけ、これを理解・所有しきることの原理的不可能性——絶対他としての顔——を論じた。私は他者の顔を見る際、何か具体的なイメージを抱くが、それは私がその他者に抱いていた観念を常に湧出・超出する。顔は常に自ら「語る」ことによって自身のイメージを更新し、破壊する。ゆえに、他者の顔は私の所有から逃れるのであり、決して理解されたり所有されたりすることがない。
 ヨルシカのミュージックビデオにおける顔の不在は、まずもってこうした他者の根源的な理解不可能性を示唆しているといえる。われわれミュージックビデオの鑑賞者はミュージックビデオに登場する人物の顔を見ることができず、それゆえに彼らの表情、ひいては感情や性格を読み取ることができない。われわれは歌詞など別の媒体でもって彼らの心情に迫ろうとするが、こうした媒体を迂回した他者理解は不十分なものと言わざるを得ない。
 実際、ヨルシカの楽曲の歌詞を概観すると、言葉の限界を歌うフレーズが散見される。例えば、「春泥棒」における「愛を歌えば言葉足らず」、「花開いた今を言葉ごときが語れるものか」、「靴の花火」における「何か言おうにも言葉足らずだ」、あるいは「春ひさぎ」における「どれだけ吐いても言葉は言い足りない」といった一節は、「言葉」が伝えきれないこと・表現しきれないことがあることをもどがしけに歌っている。
 もちろん、言葉もまた一つの感情の表現であることは間違いないが、言葉と実際の感情の間には埋められない隙間がある。これらは言語を介した表現であるという点で間接的なものに留まり、顔にように直截的に我々に呼びかけてくるものではない。

顔の「遠さ」——<わたし>は<わたし>を見ることができない

 顔は他者との「遠さ」を浮かび上がらせると同時に、翻って、わたし自身に対する「遠さ」を明らかにする。

われわれは自分の顔から遠く隔てられている。われわれは他人の顔を思い描くことなしに、そのひとについて思いをめぐらすことはできないが、他方で、他人がそれを眺めつつ<わたし>について思いをめぐらすその顔を、よりによって当のわたしはじかに見ることができない。

鷲田清一『顔の現象学』p22

顔が不在であるヨルシカのミュージックビデオは、まずもって他者理解の困難さを浮かび上がらせるが、翻ってわたし自身が見えないこと=わたし自身を理解することの困難さをも浮かび上がらせる。ミュージックビデオを鑑賞するわれわれは、ミュージックビデオ中の人物の顔へのアクセスが断念される経験を経て、われわれ自身の顔へ至る経路が他者の顔にあることを逆説的に再認識する。

ずっとおかしいんだ
生き方一つ教えてほしいだけ
払えるものなんて僕にはもうないけど
何も答えられないなら言葉一つでもいいよ
わからないよ
本当にわからないんだよ

ヨルシカ「雨とカプチーノ」

わかんないよ わかんないよ
わかんないよ わかんないよ
想い出になる 君が邪魔になっていく
わかんないよ わかんないよ
わかんないよ わかんないよ
わかんないよ
上手な歩き方も
さよならの言い方も

ヨルシカ「詩書きとコーヒー」

 そして、このことは同時にわたしというものが決して閉じた存在ではないことを示している。わたしは他者のまなざしを経由して間接的にしか私の顔に近づくことができない。わたしはわたしの顔を見つめる他者の顔、他者の視線を通じてしか自分の顔に近づけない。顔は、人々が互いに自己を相手の中に鏡像のように映し合う相互理解の関係、いわば「意味作用のシステム」の中に埋め込まれており、こうした相関の中ではじめて<わたし>は構造的に措定されるのである。

その意味では他者は文字どおり<わたし>の鏡なのである。他者の<顔>の上に何かを読み取る、あるいは「だれか」を読み取る、そういう資格の構造を折り返したところに<わたし>が想像的に措定されるのであるから、<わたし>と他者はそれぞれ自己へといたるためにたがいにその存在を交叉させねばならないのであり、他者の<顔>を読むことを覚えねばならないのである。

鷲田清一『顔の現象学』p56

こうした自己と他者の存在の根源的交叉(キアスム)とその反転を可能にするのが、解釈の共同的な構造である。ともに同じ意味の枠をなぞっているという、その解釈の共同性のみに支えられているような共謀関係に<わたし>の存在は依拠しているわけである。

鷲田清一『顔の現象学』p56

顔——現れることさえできないほど薄弱な非現象

 だとすれば、顔の不在を描くヨルシカのミュージックビデオは、こうした意味のシステムから逃れ出てしまうような、意味を拒否する顔の在り方もまた浮かび上がらせているのではないだろうか。
 『顔の現象学』において鷲田はリルケの『マルテの手紙』を引きながら、顔の「素顔」が覆われていることについて、上の意味作用システムに入ることの不可能性、「わたしと他者とが滑らかな交通関係に入ることの一方的な拒絶」(注11)と言っている。つまり、顔が塗りつぶされているヨルシカのミュージックビデオは、『マルテの手紙』同様、わたしと他者の共同的な意味の構造とは別の可能性を、「意味の外へと逸脱してゆく存在の表面として」(注12)も顔が現象しうる可能性を示唆しているといえる。
 意味に拉致されないような顔の生成は、言わずもがな、像や記号を媒介とする他者の立ち現れとは全く異なる。ここで他者の顔は、もはや「人称の外部」にこそ関係づけられなければならない。「人称の外部」とは、「もはや(あるいは、未だ)だれでもないような存在、つまりは無名、失名、没名といった、いわば匿名的な位相にある存在のこと」(注13)である。レヴィナスは、こうした人称の外部における顔の切迫的な立ち現れを「召喚(assignation)」という概念で規定する。ここで顔は「それが何かとして対象的に意識されるよりも先に、戦慄にも似た切迫性をもってわれわれを撃つ」(注14)。
 つまり、顔の「召喚」は、対象として理解されるようなものではなく、「現れることさえできないほど薄弱な非現象」である。顔は「召喚」として切迫的に立ち現れるにもかかわらず、対象として把握しようとしたその瞬間に姿をくらます。顔は≪痕跡≫としてしか現出しえない。
 だから、社会に拉致された顔を意味の外部に取り戻すことは、それほど容易なことではない。

意味のまったく不定な顔は、われわれを恐慌状態に陥れる。顔が読めないまま対面するという状況に耐えられないからだ。だからこそわれわれは、いかなる意味をも浮かび上がらせないような無表情を、あるいはいかなる意味へも収れんしないような散乱した顔面を、それとして受け容れることはできないで、それを意味によって包囲するか、意味を喪失したものとして「顔」としては否認するか、そのいずれかの事態に押し込めてしまうのである。

鷲田清一『顔の現象学』p102

 ヨルシカのミュージックビデオにおける素顔の隠された顔たちは、まさにこうした意味での≪痕跡≫としての顔を我々に示す。そこに顔は確かに存在するが、それを我々は通常の意味で理解・認識することはできず、「意味のまったく不定な顔」として切迫的に立ち現れる。それらは我々に存在を突きつけると同時に姿を隠すのであり、感性的直観の中に置かれながら悟性的認識を拒む、「現れることさえできないほど薄弱な非現象」としての顔である。素顔の隠された他者の顔において、われわれは消えることの現前、「見えないことの見えていること」に触れる。

隣人の顔は現象性の欠損にほかならない…(中略)…ある意味では、現れることさえできないほど薄弱な非現象であるがゆえに、現象「以下」のものであるがゆえに、隣人の顔は、現れることなき現象性の欠損にほかならないのだ。

レヴィナス『存在するのとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』

 ≪痕跡≫としての顔——このような観点からヨルシカの楽曲を捉えなおすと、ミュージックビデオにおける顔の表現に留まらず、≪痕跡≫というキーワードがヨルシカの楽曲の中核的な一要素であるということに気付かされる。「ただ君に晴れ」の歌詞には、「あの夏の君が頭にいる」、「君の想い出を噛み締めてるだけ」といった過去のノスタルジックな記憶、あるいは「僕らの影に夜が咲いている」、「陽の落ちる坂道を上って僕らの影は」といった自身の影への言及が見られる。こうした表現は、ミュージックビデオに登場する学生が記憶・想い出の断片、あるいはわたしにつきまとう「影」としての現象である可能性を示唆している。だが、こうした現象の確かさは同時に否定されている。

写真なんて紙切れだ
思い出なんかただの塵だ
それがわからないから 口を噤んだまま

ヨルシカ「ただ君に晴れ」

すなわち、ここで現象しつつ塵として消えかかっている過去の記憶・影は、まさしく「薄弱な非現象」=≪痕跡≫として存在している。

忘れないように 色褪せないように
形に残るものが全てじゃないように
…(中略)…
今だけ顔も失くして
言葉も全部忘れて
君は笑ってる
夏を待っている僕ら亡霊だ

ヨルシカ「花に亡霊」

「花に亡霊」における「亡霊」もまた、こうした≪痕跡≫としての在り方の特徴を端的に示している。すなわちここで「亡霊」は「形に残るもの」や「言葉」といった分節化され認識されるものとは異なる非現象として、まさしく≪痕跡≫たる存在として措定されている。なお、本論の文脈では、これが「顔も失くして」いると表現されていることに注目したい。これまで確認してきたような「顔の不在」が明示的に「亡霊」という≪痕跡≫と等置的に描写されているのであり、このことはミュージックビデオにおける素顔の隠された顔が≪痕跡≫の現れであるということを傍証する表現であると言えよう。
 「ただ君に晴れ」や「花に亡霊」が≪痕跡≫を介して意味の外部の可能性を示唆するのに対し、「パレード」や「靴の花火」の歌詞は、もう一歩踏み込んで意味の外部の真正性をも主張する。

身体の奥 喉の真下
心があるとするなら君はそこなんだろうから

ずっと前からわかっていたけど
歳とれば君の顔も忘れてしまうからさ
身体の奥 喉の中で言葉が出来る瞬間を僕は知りたいから

ヨルシカ「パレード」

大人になって忘れていた
君を映す目が邪魔だ

ヨルシカ「靴の花火」

 こうした表現が前提としているのは、言葉や意味による世界の分節化が時間的に後になされるという想定、さらには、分節化以前にこそ事物の真なるイデアが存在するという想定である。「パレード」における「喉の真下」にこそ「君」がいるというフレーズは、その後の歌詞と併せて考えれば、真の「君」が言語化以前の領域に「心」として存在しているということの表明であり、「靴の花火」が歌っているのは、我々が目という感性的直観=人間特有のレンズを通してしか物事へアクセスできないこと、すなわち物自体へのアクセスが断念されていることに対するもどかしさである。

結論に代えて——≪痕跡≫としての顔が拓くもの

 本論は、ヨルシカのミュージックビデオにおける顔の不在に着目し、これらがいかに描かれているか、そして、いかなる意義を有しているかを論じた。顔の不在の描かれ方については、(1)焦点化を免れている眼・顔、(2)塗りつぶされる眼・顔、(3)仮面によって隠される顔、の三つの類型に整理し、それぞれ具体的な描写を確認した。(1)は前編で確認したYOASOBIの「夜に駆ける」同様、心情の理解に関わっており、(3)は数の限られる特殊類型である一方、(2)の類型は、如何なる意味・意義を有しているかを読み取ることがその表現ぶりを確認するだけでは困難なものであった。
 ゆえに、本論では特に(2)の類型に焦点を当て、こうした描写がいかなる意義を有しているかの解明を試みた。意義の検討にあたっては、顔をめぐる思想を展開したレヴィナスや鷲田の『顔の現象学』を主な手引きとした。顔の不在は、まずもって他者理解の困難、そして翻って自己理解の困難を顕在化する。だが、こうした困難は単に不可能性のみならず、顔を介した意味作用システムの外部の可能性を招来する。その意味で、ヨルシカのミュージックビデオにおける素顔の隠された顔は、分節化以前の非現象としての≪痕跡≫を示している。≪痕跡≫としての顔は、意味の全く不定な「何か」として我々に立ち現れるのであり、それを「何か」として認識することはできない。
 ≪痕跡≫としての顔は切迫的に立ち現れるにもかかわらず、対象として把握しようとしたその瞬間に姿をくらます。ゆえにこれを捉えることは難しい。そもそも我々が通常理解する形で「捉える」ことはそもそも不可能である。だが、そこに言語や意味に分節化・記号化されていない<ひと>という存在の原型がある。

レヴィナスが、あるいはかのジャコメッティが、終生〈顔〉にこだわりつづけたのは、〈顔〉を包囲しにやってくるあらゆる意味を剥ぎ取り、そして、どのような取り込みにも抵抗する〈顔〉の、脆く儚く壊れやすい、つねに〈死〉の可能性に引き渡されたその裸形の現われを、〈ひと〉という存在の原型として救い出すこと、そこにしか現在における「書くこと」との、そして「描くこと」の意味はないと信じていたからではなかろうか。

鷲田清一『<ひと>の現象学』p45

このようにして、<ひと>の存在の根源的な多様性を「同」ということによって包囲する"appropriation〔占有=併合〕"の運動に抗い、「<ひと>という存在の原型」の救出は果たされる。


 ≪痕跡≫としての顔と同様、“切迫的に立ち現れるにもかかわらず、対象として把握しようとしたその瞬間に姿をくらます”≪痕跡≫としての特徴を持つものがある。すなわち、前編の冒頭でその直截的・非媒介的な性格に言及した「非視覚芸術としての音楽」である。繰り返すと、音楽の意義を論ずる哲学的議論において、音楽は外的な空間化や抽象化を経ずに我々の内的直観に訴えるゆえ重要な芸術として措定されていたのであった。
 ヨルシカのミュージックビデオが呈示する顔の≪痕跡≫性は、多分に音楽の特徴と重なり合っている。ミュージックビデオの視覚性と音楽そのものの非視覚性が、≪痕跡≫というキーワードによって結びつき、それらが絡まり合って≪痕跡≫の可能性=<ひと>という存在の原型を救い出す可能性を拓いていく。ミュージックビデオという視覚的芸術における顔の不在という一見矛盾した事態は、非視覚的芸術たる音楽と手を取り、我々を言語や記号の氾濫する意味作用システムの外部へ連れ出す。
 そして、≪痕跡≫としての顔が、≪痕跡≫としての音楽が、「現れることさえできないほど薄弱な非現象」であるとするならば、我々の課題はこの≪痕跡≫をそのままに受容することである。我々は得体の知れない何かに接した時、しばしばそれを意味によって囲い込んでしまうか、意味のわからないものとして排除してしまう。だが、ここで真に重要なのは、宙づりのままにとどまる覚悟であり、わからなさをわからなさのままで耐えることである。こうした宙づりに耐えたその先に、<ひと>という存在の原型はゆらめいている。

脚注

(注1)この点、前編で予告していた内容と少しずれることについてはお断りしておく。前編での予告では、ヨルシカにおいて特に「眼の不在」が問題となっていると言及したが、実際の後編(本記事)では、より広範な「顔の不在」を扱っていく。
(注2)この点、顔が前面に出ていない意図についてはコンポーザーのn-bunaが明確に語っており、それは彼の「芸術至上主義」から来るものである、と取り敢えずは言うことができる。

どうせ人間は最終的には死ぬので、それならやりたいことをやって、好きにものを作って死んでいく方がいいなと思いますし。僕の"芸術至上主義"っていうのは、どちらかと言うと......話が違う方向に行くかもしれないんですけど、作品の価値みたいなところに行き着くんです。まがりなりにも、僕のやってる音楽というものが芸術だとして、その作品を大切にしたいんですよ。『だから僕は音楽を辞めた』の中でも、神様が宿るのは、それを作った人じゃなくて、作品だって書いてるんです。
…(中略)…
これはヨルシカの在り方にも繋がる話なんですけど、ヨルシカは作品だけを前に出して、作ってる人間自身の情報とかバックグラウンドを前に出さないじゃないですか。だから僕たちの音楽の在り方としては作品だけを見てほしい、そこに尽きるんです。

https://skream.jp/interview/2019/04/yorushika_2.php

だが、以上の説明は、なぜ顔を登場させたうえで否定するような表現形態をわざわざ採っているのか、顔自体を映像上に出さないという選択肢もあり得るにも関わらずなぜそうはしていないのか、といった疑問に十分に回答することができない。また、本論の分析はあくまでテマティスムの手法を採る。すなわち、作家の思想・主張を俎上に載せることはせず、専ら作品それ自体に着目して作品の意義を論じる。
(注3)論旨から外れるため、ここで取り上げられなかった眼・顔をめぐる描写も多々存在する。特に、「準透明少年」におけるサブリミナルな見開かれた眼の描写や、「テレパス」における眼球のズームアップ、あるいは「アルジャーノン」における実写の(恐らく)老婆の眼など、眼が否定的ではなく、逆に強調されて描かれている描写もいくつか存在する。これらを本論でカバーしきれなかったのは完全に当方の力量不足であることを予め断っておく。
(注4)ただし、(注3)のとおり眼が顕わになっている箇所も存在し、ミュージックビデオ全体を通して眼が焦点化されていないわけではない。
(注5)https://realsound.jp/2019/08/post-409392.htmlより
(注6)https://cgworld.jp/feature/202103-yorushika.htmlより
(注7)https://yorushika.com/news/detail/11644より
(注8)私はこれを正確に表現する語彙を持ち合わせていないが、「デジタル」なインクのイメージである、と言えばよいだろうか。
(注9)本論で取り上げた2楽曲に加え、「花に亡霊」の少年の眼に焦点が当たらないことについても同じことが推察できる。映画の物語において、少年は「(美代(少女)のように)思っていることをはっきり言えればいいのに」とつぶやくシーンがあるが、裏返して言えば、この前後において少年の本心は隠されているということができ、それゆえの眼が焦点化を免れている描写であると考えられる。
(注10)エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』藤岡俊博訳、p72
(注11)鷲田清一『顔の現象学』、p36
(注12)同上、p111
(注13)同上、p112
(注14)同上、p155

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コメント

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裏でごちゃごちゃ言ってると思われたら嫌なんで、報告しとくと芸術、音楽、哲学すべてに対してあまりにも無知であり、その意味で害悪だと思ったので私の【魔女が解読】という記事の下部で公開批判しています。かなりむかついてるんですよ。レヴィナスはもちろん原文から読んでますよね。こういった記事をあげるからには相応の反論も表に出るし、その反論に対してどのように回答するか、その質によってお互い外部から評価を受けるということには理解があると思うので。是非、こちらの辛辣な批判内容を逆に踏み潰す勢いで応答に来て下さい。

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【後編】ミュージックビデオにおける反/非視覚性—— ヨルシカにおける<顔>の不在|popmap (vordhosbn)
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