女優として妻として共に 岩下志麻さんが語る篠田正浩監督の思い出

 「心中天網島」や「瀬戸内少年野球団」など多彩な映画を残し、3月に94歳で亡くなった篠田正浩監督。妻として俳優として共に歩んできた岩下志麻さんが篠田監督の思い出を語る。

ピンクのショートパンツをはいた監督

 岩下さんは1960年の松竹入社直後、篠田監督の第2作「乾いた湖」に出演する。「撮影前に面接を受けました。強烈に覚えているのは篠田がはいていたショッキングピンクのショートパンツです。こんなに若くてカッコいい監督さんがいるのかと驚きました」

 主人公のニヒルな大学生の遊び仲間を演じた。「キスシーンがあったんですが、私、初めてだったので、ぐずぐずしていたんです。そしたら『何やってんだ。早くして!』と怒られて、あわててキスをしました。篠田は陸上選手でしたから何でもスピーディーなんです」

 「夕陽に赤い俺の顔」や「わが恋の旅路」など篠田作品の出演が続く。「松竹は私をメロドラマ女優として売り出していました。運命に流される女性が多かった。でも篠田組ではいつも意志のある女性でした。だから出演が楽しみでした」

「私、監督さんと結婚しそうな気がします」

 64年、京都で撮影した時代劇「暗殺」でのことだ。「篠田に誘われ、先斗町(ぽんとちょう)でデートしました。私、すごい飲んべえだったんです。2人でカウンターに日本酒の2合とっくりが10本並びました。篠田はずっと映画論を語っていました。先生と生徒みたいでした」

 東京・赤坂のナイトクラブで「暗殺」の打ち上げがあった。「ダンス音楽がマンボになり、たまたま篠田と向かいになって踊っていた時、『私、監督さんと結婚しそうな気がします』って言ったんです。私は束縛されるのが嫌だし、普通の奥さんになるなんてこれっぽっちも思っていなかったのに、なぜかそう言っちゃった。『結婚したい』じゃなく『しそうな気がする』ですからね」

 結婚に当たり、篠田監督の言葉が結婚、即引退の当時としては斬新だった。「家庭は休息の場にしなさい。結婚によってもっと大きな女優になりなさい、と言われました」。しかし周囲は99%反対だった。「あまり反対されるんで、私もだんだん意地になってきて。『結婚して大きな女優になってみよう』と思うようになりました」

独立プロ立ち上げて初体験した切符売り

 65年に松竹を退社した篠田監督は2年後、結婚と同時に独立プロの表現社を立ち上げる。第2作「心中天網島」が評価を得た。「初めて切符を売りました。台所に表を貼り、どこどこ何枚って書き込んで。公開初日に『大入りです』と連絡があった時、うれしくて身震いしました。この作品が黒字になって、表現社の土台ができました」

 古代の女王を演じた「卑弥呼」は出産3カ月での撮影だった。「撮影前に母乳が止まってしまいました。眉を剃(そ)っていたし、私に妖気が漂っていたのでしょう。3カ月の娘が私を見ると、ギャーッと泣くんです。だから撮影中は一度も娘を抱けなかった。可愛い盛りだったのに本当に悲しかったです」

 「瀬戸内少年野球団」では、猫屋という理髪店の女将(おかみ)を蓮(はす)っ葉(ぱ)に演じた。

 「私には出来ないと思って篠田に断ったんです。そしたら翌日、原作の阿久悠さんから電話が来て『猫屋のおばはんは岩下さんにそっくりなんだよ』とおっしゃって、演じることになりました。篠田は私のことを『楷書の女優』と言っていました。この役はどう考えても『草書の女性』。よくぞ私を配役してくれました」

「もう一度、会いたい」そして…

 2003年の「スパイ・ゾルゲ」で、篠田監督は引退を宣言する。「篠田は珍しくめまいがしたり、手がしびれたりしていました。『引退する』と聞いてホッとしました」。メイキング映像の監督を岩下さんが務めた。「篠田の姿を映しておこうと思いました。実は私、40歳の頃に監督をやろうと思ったことがあるんです。自分で脚本も書きました。そしたら篠田に『監督なんてやめておけ。体力がもたないよ』って言われてあきらめました」

 引退後、篠田監督は執筆活動に専念した。「何時間もパソコンに向かう毎日でした。ある時、『卑弥呼』の第2弾を撮りたいと言ったことがありました。『おばあさんになった岩下志麻の卑弥呼もいい』と。でも映画にはならず『卑弥呼、衆を惑わす』という著書になりました」

 3月25日、肺炎で死去。まだ喪失感から立ち直れていない。「結婚して58年一緒にいました。もう一度、篠田に会いたい。会ってまた『あなたと結婚する気がします』って言わないと」(聞き手 編集委員・石飛徳樹)

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