フェンタニル密輸  「ボス」が執着した日本

見えてきた偽装のしかけ
米中「新アヘン戦争」の裏側 狙われた日本㊥

米麻薬取締局は中国密輸団のリーダー格を追っている(米麻薬取締局が入るビル)=6月、ニューヨーク

2025年6月27日 2:00

米国に合成麻薬「フェンタニル」を不正輸出する中国組織が日本に拠点をつくっていた疑いが判明した。リーダー格は米麻薬取締局(DEA)も足取りを追っている。米中対立を生み、世界を揺るがしている問題は決して遠い国の話ではない。「新アヘン戦争」の新局面に迫る。



実行犯は「若い平凡な女性」

2023年6月、米東部ニューヨークの連邦裁判所。

米東部ニューヨークの連邦裁判所で、陳らに有罪評決がくだった

「私は無実です」。判事から罪状認否を迫られると、中国籍の陳依依(Chen Yiyi)は短く答えた。最後まで言葉少なだった。

陳は中国・武漢の化学品メーカー「Hubei Amarvel Biotech(湖北精奥生物科技)」の元幹部だ。

上司である王慶周(Wang Qingzhou)の通訳を務め、違法薬物の販売サイト設計も担っていた。数週間前に米当局が南太平洋のフィジーで王ともども身柄を押さえ、フェンタニル原料を米国に違法流入させた罪で起訴した。

トン単位という化学兵器にひとしい規模の危険物質をニューヨークに送り込む。当局のおとり捜査で陳らはそうした企図を明かし、メキシコの麻薬カルテルさえ手玉に取ろうとしていた。

国際的な麻薬密輸団の実行犯の一人である。検察は起訴状に冷酷で凶暴な人物像を描いたが、実際の陳はまるで別人のようだった。

中国籍の陳依依は米国で有罪になった=DEA資料

「近所のどこにでもいそうな、若い平凡な女性だった」。裁判を傍聴した米メディアの記者は言う。急転した状況をいまだのみ込めないのか、陳は終始、どこかおびえたようなしぐさを見せていた。

25年1月。陪審団は陳らに対し、有罪評決を宣告する。



「100%ステルス配送」保証

米国に対する新アヘン戦争で、Amarvel Biotechは決定的な役割を果たした。米当局はそうみて、関係者の摘発に動いた。

実際、ネット上に残るAmarvelの活動履歴からは巧妙な手口が浮かぶ。

Amarvelは内容物を偽装して発送するとアピールしていた=米裁判資料

「100%ステルス配送で、お手元まで安全にお届けすることを保証します」

Amarvelは複数の専門通販サイトを通じて危険薬物を扱っていた。過去のページ記録やSNSには、営業だけで少なくとも10人の担当者がいた形跡がある。英語やスペイン語など複数の言語を使って、積極的に禁制品であるフェンタニル原料をすすめていた。発送時に特別な細工を施すという。

ドッグフード、ナッツ類、蜜蠟(みつろう)、エンジンオイル……。合法商品であるかのようにラベルを貼り替え、各国税関の目をかいくぐる。中国から発送したあとは経由地をはさみ、周到に発送元情報をさしかえていた。

米当局が押収したフェンタニル原料=米裁判資料

「米国の税関は99%通過できる。1000件のうち1件は留め置かれるかもしれないが、ほかの方法で運び込める」

DEAのおとり捜査官に、Amarvelの王と陳はこう請け負った。メキシコや米国内など各地に中継地点を隠し持っているとも明かしている。



日米中に多数の兄弟会社

フェンタニルを水面下でやり取りするため、Amarvelは日本、中国、米国に多くの兄弟会社を持っていた――。日本経済新聞が独自のOSINT(オープンソース・インテリジェンス)調査でつかんだ新事実も、密輸団が国をまたぐ偽装ネットワークを築き上げていた実態を示唆している。

各国の企業データベースや法人登記で、人的・資本的関係を調べてわかった。無視できないのが日本との深いつながりだ。名古屋に法人登記する「FIRSKY株式会社」という企業が組織の司令塔だった可能性が浮かんできた。

最初の手がかりは計100本を超す米裁判資料にあった。

「……23年3月23日の面談で、Amarvel社員は王(慶周)被告のほかに日本にもうひとりボスがいると説明した。王はそのもうひとりのボスにビデオ会議でつなぎ、覆面捜査官に引き合わせた……」

未公表分も含めてAmarvelの王や陳らに対する逮捕状請求書、訴状、検察意見書、裁判記録などを取り寄せ、大量の文書を調べた。そのなかでわずか数行のみ「組織のボスが日本にいる」とする重要情報をあげていた。フェンタニル危機で日本の関連性をはじめて指摘した公文書だった。

ニューヨークで裁判がはじまり、そのボスの具体的な名前が明らかになる。「(日本にいる)Xia氏が責任者」「Fengzhi Xiaが投資するAmarvelなど4社で働いていた」。陳がこう証言したのだ。

フェイスブックでXia Fengzhiという人物を探り当てた=画像を一部処理しています

取材班はフェイスブックや微信(ウィーチャット)など大量のSNS情報を分析にかけた。そして漢字で「夏(Xia)」姓の「Fengzhi Xia」という中国人男性を探し当てる。

沖縄県の那覇市在住。「慎独(独りでも身を慎み、常に自分を律する)」が信条という。プロフィル写真は丸刈り風の東アジア系男性だ。友達は6人のみ。フォロー先はひとりだけで、ベトナムの薬品関係者とつながっている。中国・武漢の高層ビル写真を投稿している。



多層構造で組織覆う

夏の氏名、なかでも名に当たる「Fengzhi」の漢字表記は中国でもそれほど一般的ではない。中国の企業データベース「企査査」「天眼査」を解析すると、さらに予想外の構図が見えてきた。

重慶、北京、天津、そして武漢。夏は中国で少なくとも16社の株主になっていた。本社所在地は複数の都市に及び、表向きの業種も建築や設計、情報技術と幅広い。

このうち武漢にある「富仕凱貿易」には100%出資し、法定代表者にもなっている。24年7月にはこの会社の監査役だった「王慶周」が突然退任した。米国で有罪になったAmarvelの王と同姓同名で、ニューヨークで裁判が進んでいた時期と重なる。

富仕凱は王が辞めると同時に、会社の事業内容も大きく変えている。それまで「貨物の輸出入、輸出入の代理、化学製品の販売」を掲げていたが、薬物の取り扱いをにおわすような一切の文言を消した。

富仕凱に登録してある夏の連絡先をたどると、ほかの中国企業7社とも結びつく。そのうちの1社である「武漢東軍労務分包」の筆頭株主はAmarvelの登記上の社長と同一人物だった。夏とこの社長は複数の企業経営に共同でかかわるなど関係の深さがうかがえる。

富仕凱国際貿易(Firsky International Trade)の営業許可証。24年に事業内容の一部を変更した=画像を一部処理しています

いくつもの法人を絡ませ、組織の核心を覆い隠す。監視の目をそらす常とう手段だ。資本関係が入り組み、多層的であるほどいい。とりわけ中国国内の法人情報は限られており、海外捜査の手も簡単にはおよばない。

しかし、つながりの痕跡は随所に残されていた。



日本とつながる足跡

「当社の製品はすべて日本から、フェデックスやUPS、日本郵便などの国際小包で発送します。5〜7営業日でお届けします」

富仕凱は中国語読みに近い「FIRSKY」というブランド名で活動していた。英語のホームページでは日本にある「Japan FIRSKY」の100%出資企業だといい、取り扱う化学薬品を日本から世界各地に送るとアピールしている。

FIRSKYの中国子会社はホームページで自社を「日本企業」とアピールしていた

自社紹介で使う工場写真はすでに閉鎖したAmarvelのサイトと同一だ。日本とみられる「本社ビル」も載っている。化学品の専門通販サイトには「富仕凱=FIRSKY」がAmarvel製の薬物を売っていた履歴が多く残る。営業担当者がAmarvel関連会社と共通のSNSユーザー名を使い回していた。

欧州調査機関ベリングキャットの金融チーム調査員、ジョージ・カッツは指摘する。「FIRSKYとAmarvelは人的にも資本的にも同じ組織といえる関連性が認められる。夏はその中心人物とみていい」

べリングキャットはOSINT分析で世界の先端を走り、各国の情報機関もその動向に注目する。14年のウクライナ上空で起きたマレーシア航空機撃墜事件では、親ロシア派の関与を暴いて脚光を浴びた。最近もロシアのウクライナ侵略や中東情勢をめぐって独自情報の発信を続けている。

FIRSKYは名古屋市西区に法人登記していた。代表者は「夏」姓の人物だ。Amarvelの「ボス」である夏は確かに日本を活動拠点にしていたとみられる。

フェンタニル密輸を手がけるうえで、夏は周到に自身の姿を消している。いわゆるフィクサー的存在である。だが一瞬だけ、その姿をのぞかせた瞬間がある。

FIRSKYは専門サイトでAmarvelの製品を販売していた=画像を一部処理しています

23年3月。日本で入手困難となったガスの調達先を中国に求め、FIRSKY社長と名乗る夏の紹介を受けた。打ち合わせと連絡を数度交わしたが、結果的に求めるガスを取り扱っていないことがわかり、連絡が途切れたままになっている――。

日本の化学品商社の担当者は経緯を打ち明ける。

「当社は日本と米国の業界大手と長期的な協力関係にある」。FIRSKYが英語のホームページでこう紹介していることについて説明を求めた。

サイトでは具体的な名前をあげている。アルファベットから想起される日本の化学企業はそう多くない。化学品商社の担当者はFIRSKYとは「取引実績、資本関係、人的交流はない」とするも、戸惑いを隠せない。

実在する業界大手と強い関係がある。だから自分たちを信用してほしい。夏は数回だけ接触した事実をもって、こう吹聴していた可能性が高い。

米大手は「FIRSKYとの取引実績はない」と回答した。



密売買に最適な場所

FIRSKYが日本にこだわった理由が見えてきた。

日本製品の品質は世界でも折り紙つきだ。営業面で日本の持つ信用力やブランド力を利用しようとしていた形跡がある。

さらに日本はフェンタニルに関連した犯罪がほとんど確認されていない。原料の生産地として知られる中国、麻薬カルテルが暗躍するメキシコと違い、各国の捜査当局からも警戒されにくい。日本から送れば、税関が通りやすいとの指摘もある。

各国税関はフェンタニルを厳しく取り締まっている(2月、オンタリオ)=ロイター

「日本は外国人が出入りしやすく、密売買ネットワークの拠点とするには最適な場所だ」

メキシコの「シナロア・カルテル」元幹部で、現在はDEAに協力するマルガリート・フロレスは指摘する。中国で麻薬犯罪は厳罰の対象だ。米国も当然厳しく取り締まっている。

だからノーマークで安全圏の日本へ。夏は名古屋のFIRSKYを通して、危険薬物の集配送や資金管理を指示していたとみられる。

使えるものは何でも使う。一連の偽装のしかけからはそうした夏の抜け目のなさが見えてくる。人に対しても同じだ。

25年1月、ふたたびニューヨークの連邦裁判所。

王慶周はAmarvelで陳の上司だった=DEA資料

自己弁護にのぞんだ陳はAmarvelに関わることになった半生を語った。メディア演出や国際コミュニケーションの学位を取得し、一時はイタリアに移住して高級ブランド企業で働くなど前途洋々だった。しかし新型コロナウイルス禍が起きて暗転する。

故郷の武漢に戻ったが、都市封鎖が続く。なんとか語学力を生かしたい。生活のために見つけた会社がAmarvelだった。

フェンタニルの商談を一貫して担ったのは通訳の陳だ。裁判でAmarvelの上司だった王はそう主張を繰り返し、陳に責任を押しつける態度を示した。このままでは捨て駒にされる。陳が日本のボスの実名「Fengzhi Xia」を漏らしたのは、せめてもの抵抗だったのかもしれない。

すべては表舞台には出てこない夏につながる。何者か、なぜ日本なのか。取材班は真相を求めて名古屋に向かった。

◇      ◇      ◇

日本経済新聞はAmarvel裁判で有罪になった陳依依、王慶周それぞれに取材を申し込んだ。

陳の弁護士であるマーロン・カートンは「量刑宣告まで議論できない」と述べた。王の弁護士、レオ・オルドリッジは「現時点ではコメントできない」と答えた。

米ニューヨーク連邦裁判所は8月、陳らへ量刑を言い渡す。

=㊦につづく(敬称略)



日本がフェンタニル密輸ルートの結節点になっている疑いが浮かび上がった。「米中『新アヘン戦争』 狙われた日本㊦」は6月28日公開の予定です。



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