大本営陸軍部戦争指導班は同年六月二四日の日誌に「来月上旬中には『サイパン』守備隊は玉砕すべし、最早希望ある戦争指導は遂行し得ず、残るは一億玉砕に依る敵の戦意放棄を俟つあるのみ」(軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌 下』)と綴った。
これは、日本人が「一億玉砕」するまで戦争を続けて米国の軍民を倦ませ、戦意を放棄させることで、不名誉な降伏ではなく、対等な講和につなげたいというのである。
陸海軍は早々にサイパン島放棄を決定したが、大元帥・昭和天皇はなおも諦めず、二五日に元帥会議を開かせ、再考をうながした。
この会議でも結局は放棄策が支持されたが、その席上、元帥海軍大将の伏見宮博恭王は「陸海軍とも、なにか特殊の兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない……戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊のものを考案し迅速に使用するを要する」(防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊〈六〉第三段作戦後期』)と、劣勢挽回を可能にする「特殊」兵器の開発を要望した。
この要望に対し、嶋田繁太郎軍令部総長は「新兵器を二、三考究中である」と応じた。戦史叢書は嶋田のいう「新兵器」を、人間魚雷「回天」やモーターボート「震洋」などの水上特攻兵器と推定している。
こうした新兵器願望は、国民のあいだにもあった。埼玉県久喜町で高等女学校の教師をしていた浅見真吉は、四四年八月三日の日記に「太平洋方面はおされ気味だ。成層圏飛行機で米大陸爆撃をやるか、特殊潜航艇のようなもので一挙に敵艦船をやっつけるようなことは出来ないものか」、「素人考えで勝手な熱を吹くのはいけないかもしれないが奇想天外的の戦果はないものか」と書いている(津田道夫編『ある軍国教師の日記』)。
浅見は、その息子の回想によれば「戦局に一喜一憂し、『聖戦』を信じて、久喜高女の教師として、久喜町の亜インテリとして、戦争協力に全力をあげていた」人だったが、それでも戦争の前途に不安を抱くようになっていた。浅見は自分の考えを「素人」と卑下するが、玄人中の玄人のはずの伏見宮も、たいして変わらないことを考えていたわけである。
さらに後編記事<なぜ「特攻」が始められ、とめどもなく続けられたのか…そのとき、軍部が「対策を迫られていたもの」>では、特攻がはじめられた原因について迫っていく。