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ESCAPE(1)







皮膚を這いずるような暑さが、やっと収まってくる。
ガラスの向こうの夜景も、熱を含んだようにどんよりと沈んでいる。
あたしはこの間までの心地よい疲れに、まだ軽く高揚しているのかもしれない。
久しぶりのかおるに酔っているのかもしれない。
たとえ、その微笑がいつもより濁っていたとしても。


テーブルの上には、行儀悪く皿が並ぶ。
少しずつつまんで、少しずつ残して。
お互いに距離を測りあうように、目を合わせる。
シャンパンももうすっかり空けてしまった。
ソファで大きく伸びをして、そして気がついてしまう。
この手持ち無沙汰な沈黙で、あたしが目を逸らしていたものに。
あたしは辛うじて、言葉を繋ぐ。

「やっと東京ね。」
「ん。」
「どう?」
「まあまあ。」
「ふうん。」
「・・・・楽しいよ。」

唇は動いても、ゆるゆると瞳は伏せられたまま。
睫が一層際立って、濃い陰を作る。
口角は上げているけれど、いつもの笑顔を作れない。
耳元のピアスが、心細げに光を弾く。
あたしはつい目を細めてしまう。



「ちゃんと食べてんの?」
かおるが潤んだような瞳をあげる。
「・・・ん。」
「ちゃんと寝てんの?」
分かるか分からないほどに小さくうなずいて。
「・・・ん。」

今はものすごく忙しい時期のはず。
そのくらいは想像つく。
だけど、その先は想像したくない、しちゃいけない。
どうしていいかわからず、手首を掴む。
又細くなった、あなた。
爪を綺麗に切りそろえた、細くて長い指。
今はその細さすら痛々しい。

あたしはその痛々しさを、癒す術を知らない。


「おいで。」


かおるの身体は、小さな人形のようにたやすくあたしの上に屑折れる。
重なって、抱きしめて、じっと丸まるようにして胸に顔を乗せている。
変わらない柔らかな前髪に指を遊ばせる。
「痛んじゃってるわね。」
「・・・・仕方ないじゃん。」
「ちゃんとケアしてるの?」
「・・・・職業病だよ。」
ぽつぽつと言葉を引っ張り出す。
強張った顔のまま、唇だけが小さく動く。

少し苦しい姿勢であたしは顔を上げ、かおるの顔を引き寄せる。
あたしのあなたが潤んだままの瞳でなすがままに唇を寄せる。
素直に開く口元から、舌で形のいい歯をなぞってゆく。
瞳はその陰を纏ったまま、あたしに向けられる。


あたしはその陰を、晴らす術を知らない。




「あち・・・・っ!」


やっと目が開く。
「ど・・・して、りかさん・・」
戸惑ったような、怒ったような、どちらともつきかねる顔をする。
「ひどいよ・・・いきなり噛み付くなんて。」
「そう?」
「痛い・・・もん。」
いつもよりもおずおずと、上目があたしを見つめる。
「痛くやったんだもの、当たり前よ。」
あたしはこの上なくさらりとした顔で答える。
「なんで、そんなこと、するの?」
もつれるように、ゆっくりと話すあなた。


あたしは何をやろうとしているのかしら。
本当はたまらないほどじりじりしてる。
なによりあたしには耐えられない。
気づいていない振りをしていたけれど。

「痛かった。」
又胸の上に小さな頭が乗る。
馴染んだ髪を、あたしはそっと撫でる。
「痛かった・・。」
肩が震える。
頼りなげな頭に、あたしは頬を寄せる。
「痛い・・・」
小刻みに喉がしゃくりあげる。
切り裂かれるような思いで、あたしは目を閉じる。
「痛・・・い・・・・」
嗚咽し始める身体を、あたしは無意識に抱きしめる。
あなたの身体は駄々をこねるように、あたしの腕の中で暴れる。
あたしはただ抱きしめる。
あなたの涙が全てあたしの胸に注がれるように。
切れ切れに洩れる声は、意味をなさないまま。
それでいいから、早く出し切って、お願い。
言葉に出来ないままに、かおるを又抱きしめる。

なにかから逃げるように、必死で抱きしめる。









「泣いちゃった。」
「そうね。」
胸に顔を伏せたまま、かおるが言う。
「りかさんの服、汚しちゃった。」
「別に。」
「痛かったんだ。」
「ん。」


そして、あたしたちは取り残されたように動きを止める。

部屋の空気はゆるやかに軽くなる。
わずかに残っていた熱気が、いつのまにか散っている。
お互いに息を合わせるように、ただベッドに横たわる。


不器用なあなた。
もっと不器用なあたし。


何にもならないことしかできない、したくない。
なのにこの突き上げるような想いに抗えない。



だから二人、逃げるしかない。















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