三十八
「かをる。」
今は未時、あちこちの部屋でお姐さんたちは身支度に慌しい。
脂粉の香りの混ざったようなざわめきの中、
穏やかで、ちょっと低くて、けれども良く通る声。
着物を畳む手を止めて、わたしは太夫の襖を開ける。
「お呼びですか?」
襦袢姿のまま部屋部屋の喧騒など、全くかかわりの無い風情、
太夫が涼しげに、わたしを手で招く。
艶やかな唇が少し開いて、いつもの様にまだ眠たげな瞼で。
こういう時の太夫は、目の覚めるような啖呵を切る時とは別人みたい。
だけどどちらも同じくらい美しくてあでやかで、
全てにおいて人を魅きつけてはなさない松の位なのだわ。
「これ・・・」
初雪で織り上げたような、白綸子の打掛が目に入る。
裾には氷の結晶のような煌きが散りばめられて。
光りの加減できらきらと、それは息を呑むほどに美しく。
わたしは襖に手をかけたまま、ぼんやりと見つめてしまった。
これを羽織る太夫は、どれほどに美しいことだろう。
まるで天女のように、いえ、それよりも遥かに、
「気に入った?」
太夫の声で目が覚める。
「え・・・。」
「二枚、・・・・あるでしょう。」
仕立てさせた着物がようやく届き、
あたしときたら、なにを浮かれていたのかしら。
「あなたと、あたしの、」
これが最後の、揃いだから。
「八朔の日の ・・・。」
かをるの瞳が大きく見開かれる。
八朔の日、あたしとあなたの最後の揃い。
全ての意味が、その瞳に収束してゆく。
立ち尽くすかをるの肩を抱いて、あたしは襖を閉めて。
手を取って、打掛に触らせる。
かをるは両手で恐る恐る掬い取るように、
その感触に、目を丸くする。
「柔らかい・・・・」
「そうね。
最高の絹地だけを、使わせたから。」
それは溶けてしまいそうな、見たことも無いほどに素晴らしい練絹で、
わたしはこれを着なければいけない日のことを、しばし忘れる。
「りかと・・・・一緒なの?」
よろけるように、かをるはあたしの肩に顔を寄せる。
寄り添うように、あたしたちは打掛の前で立ち尽くす。
並べて掛けてあるそれは、あたしたちを包み込むように。
ぼんやりと初雪を踏みしめるあたしたちが見えたような、気がした。
互いに寄り添い、掌を重ね。
何処へと向かうのか、ひとつひとつ足跡を重ねながら。
微笑んで耳に口を寄せるかをる、あたしはこの上もなく嬉しそうに、
見詰め合って微笑みあって、歩を進め。
この世の果ての、静謐な銀世界。
ただ、あなたとあたしだけで。
肩にかけた手に、かをるの掌が重ねられる。
縋るように、小さく力が入る。
「花嫁御寮、みたいね・・・・」
俯きがちに、かをるが小さく呟く。
指と指とが絡む。
それはいつしかしっかりと重なり合い、痛い程に握り締められる。
かをるの額にあたしは頬を寄せて、かをるの薫りがあたしを包む。
なぜか微笑むように、あたしたちの頬が歪んだ。
「そうね。」
曇り一つ無い、清らかな花嫁衣装。
ただ一差しの紅、それだけでいい。
どれほどにこの子が美しいことか。
値段なんかつけられない、つけちゃいけない。
そういう類の美しさなんだと、あたしは知っている。
知っていながらも、狂おしく求めて、
誰よりも愚かなのはあたし。
頭の中で幾度も幾度も考えた。
りかのいない時、たった一人の時に。
分かっているつもりなのに、それでも胸が苦しくなる。
気が狂いそうになる。
咳が止まらなくて、涙が滲んでくる。
時たまだけれど、懐紙が薄紅に染まることがある。
わたしの身体は、どうなっているのだろう。
わたしのこころは、どうなってしまうのだろう。
あの峠の風花に吹かれて、わたしはそれでいいと思っていた。
なのにりかの声に触れて、その眼差しに浸されて、
熱い肌を重ねるとき、風花は溶けてしまう。
そしてわたしたちは果てしなくお互いを求め合い、
その先に同じものを、見ているのだろうか。
言葉にはならないままに。
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