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  三十六










「いいかしら。」



屋台のお客さんたちは、お寿司を喉にでも詰まらせたような顔になる。
二三歩後ずさりして、皆が場所を開ける。
花魁など、格子越しにしか拝めない人々が殆どだから、
目をぱちくりさせて、遠巻きの視線が太夫に集まる。




藍染めの浴衣に素肌、洗い髪。
湯上りの肌は白粉ではだせない程に、仄かに柔らかな色合いを帯び。
深くて大きな瞳は、燈篭を映したように色が揺れる。
立ち姿だけで、浮世離れした色香が知らずに零れ落ちる。
屋台の主人まで言葉を無くし、突っ立ったままなのも仕方ない。









「かをる、何にするの?」


「ええとね、小肌。」







太夫と二人、縁日にでも来たみたいで、
わたしは甘えた声になる。


「あのね、江戸前のお寿司は小肌が一番だって。」
「聞いたの?」
「ううん、昔ね、お兄様の本で読んだことがあるの。」


かをるの顔に、少女の含羞が過る。
はにかむように、でも精一杯畏まって書台を覗いていた姿が目に浮かぶ。



「りかは?」
「そうね。」


膨らんだ口唇に、細い人差し指を押しあて思案して、
耳に口唇が寄せられる。


「本当はね、少し苦手なの。あたし。」
言葉とは裏腹に、わたしの耳元に太夫は口を寄せる。
はしゃぐような擽るような気が、耳朶を掠める。
「なま物って。」





そして通りの明かりなど霞ませるような微笑を、
わたしだけに投げかけてくれる。









「お兄さん、小肌と穴子、握って。」





やっと目が覚めたように、屋台の主人はあたふたと握りだした。














通りをぶらぶらと冷やかして、あたしたちは部屋に戻る。







ただ手を繋ぎ歩くだけなのに、上気したような頬になる。
それだけの事が、どれほどに望めない事かわかってしまったから。
あたしたちは浮世に、漕ぎ出してはならないから。
小判に浮かぶこの夢の中でしか、息をしてはならないから。





「疲れた?」


寝具を整えるかをるに尋ねる。
「ううん、楽しかった。」
向く顔は、まだ上気したように頬が赤い。
「熱、あるんじゃないの?」
額に額をあわせ、見詰める瞳は潤んだまま。
「ううん、平気なの。」
そういって、熱い頬をあたしの胸に押し当てる。





まだわたしは甘えたくて仕方ない。
さっきの太夫があんまり綺麗で、
あんまり誇らしくて。
柔らかな太夫の鼓動を、頬で感じる。
この安らぎのなかで涙が出そうなのは、どうしてだろう。






短冊に書いたのは、本当はわたしの名前だけ。
願い事は胸から溢れるほどにあるけれど、
とても言葉になんか出来なくて。
筆を手にして、散々迷って、
神様や仏様がもしいるのならば、
わかってくれるかもしれないと。
わからなければ、それでいい。







側にいられる今だけで、いい。

   










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