「今苦しんでいる奴は過去に悪いことをしたからだ」みたいな考え方。
こういう考え方をしてると、何の罪もない被害者に対して「過去に悪いことをしたから今ひどい目に遭っているんだ」みたいに被害者を責めたりするからよくないよね、という文脈で使われたりする。
俺もそういうのはよくないと思うので、世界公正信念は有害な考え方で正されるべきだ、という人の話も理解できる。
でもさ、バカみたいな疑問なんだけど、「世界公正信念は認知バイアスである」って言う時、そこには暗に「世界は公正ではない」っていう隠れた前提があるじゃん?
この世界は、本当に不公正なのか?
いや、俺もまあ世界は不公正で理不尽なもんなんだろうなあと思ってるけど、でも世界は不公正だってちゃんと確かめたことはないんだよね。
にもかかわらず世界は不公正だと決めつけている俺は、世界が公正だと思っている人とわりとどっこいどっこいのようにも思える。
言わば俺は「世界不公正信念」の人なのかもしれない。
また、世界公正信念には有害な面があるけど、いい面もないわけではないらしい。
例えば、犯罪をしたら巡り巡って自分に返ってくるんだから、悪さはしないでおこう、という倫理が働くかもしれない。
人助けをしたら巡り巡って自分に返ってくるから、困っている人を見かけたら助けようという気持ちになるかもしれない。
逆に「世界不公正信念」の人は、このような機序で倫理は働かないから、より強い理性と信念を持って自分を律していく必要があるかもしれない。
立場によっていろんな考え方はできるけど、俺は世界は不公正だと思っている方が実世界のあり方に即しているし、総合的に見て有益であるとも思っている。
でもそれはきちんと確かめたわけではない以上、信念の域を出ていないんじゃないかとも感じる。
世界が公正であると思うのが認知バイアスなら、世界が不公正であると思うのも同様に認知バイアスなのではないかと。
世界公正と世界不公正のどちらが真理かは確かめることが難しい以上、世界公正信念の側だけを一方的に有害な認知バイアスであると切り捨てることに、俺はいくらかのためらいを感じてしまう。
公正とも不公正とも前提にせず「しかしいずれにせよ公正仮説に従って人を非難するのは有害だ」ではダメなのかな
ちょっとでもよいことよい行いをすると罰というか悪いことが起こるから 善行的なことは一切しないことにした
こういうのは、バイアスの客観性について言及しても意味がない もっとプラグマティックに見なきゃだめ つまり、特定の信念を持つことによって起きた行動や結果が良いのか悪いのかを...
不公平世界の証明は適切に論理を理解してればそんなに難しくないと思うが
証明みして
証明 自明 QED