子どもの心を返して①
4月5月と午前中3時間/週3日という五月雨登校が定着してきたところで、6月からは少し休憩の時間を取りながら学校に居られる時間を延ばそう!と、心理士さんと相談のうえ、息子と準備をしてきた。
負荷がかかるのは承知で、支援級の先生とも相談のうえ、徐々に交流級(所属の学年のクラス)の授業に参加していくことに決めた。
次週からの準備のために、放課後ならだれもいないからクラスへ入りやすいだろうと、子どもと一緒に座席の確認に学校を訪問した。
その時、事件が起こった。
交流級の担任がいたので、
「来週から、交流に入りますので席を確認にきました。どこでしょうか?ここですか?」
廊下側の一番後ろの席をのぞき込んで聞いた。
だいたい不登校の子は、目立たないように後ろの方に置かれているからだ。
今年3年目の持ち上がりの担任だけど、不登校ゆえにあまり話をしたことが無かったので、努めて明るく伺った。
先生は「いいえ、ちがいます」と
私「えっ、じゃぁこっちですか?」
先「ちがいます。」「別の部屋によけてあります。30人で教室がぎっちりなので、入り口の付近は子どもたちが出入りで危ないですし」
そう言った。
目が点になった
「あっ、そうですか」
それしか言葉にならなかった。
そばには支援学級の担任がいた。無言だった。
先「来週から来れるようだったら、そこをよけて席を作ります」
私「窓側に詰めるということですか?」
先「その机を別室によけて、そこへ机を持ってきます」
あきれたというか、何も考えられなかった。
続けて先生は、1日どういう風に過ごすかということについて話し始めた。
そして「国語と算数が支援級で、その他が交流級となると無理でしょう、いきなりは…」そういいながら時間割を眺め始める。
私は、取り繕うように予定していたことを話す。
交流に全部出るのは難しいから、徐々に時間を増やすこと。疲れたら休み休み授業に出ること。いきなり4コマ交流にはいかれないけれど、学校内で過ごせる体力と気持ちを整えていくこと。
そしてこう先生は続けた「音楽はどうします?前は、廊下からみていて、入っていけそうだなと思ったら授業に入る子がいましたよ。」
私は「イヤーマフを付けて参加していたことがあるので、そこは徐々にやっていけば…」と話した。でもだんだん子どものことが心配になっていたし、何も言わない支援担任のことが気になってふと顔を見た。
いつもカラッと明るい男性教諭が、見たことのないくもり顔だった。
そして、最後の爆弾を落とした。
「このクラスの子たちは、自分の意見をバーッとかけるようになっちゃったので、書くのが苦手なUくんはビックリしちゃうと思うから、道徳のワークシートは、最後に1行感想を書いてくれればいいですよ。〇〇がわかった!〇〇と思った!って」
とても幼稚な言葉遣いを真似て、先生は言い放った。
息子に「もうちょっとかけるよね?あの枠の中に書けばいいんだもんね」そんな言葉をかけたと思う。
時計を見て、もう次の用事の時間が迫っていたので、
「次の用事の時間が迫ってきたので、失礼します」と言い、教室を後にした。
下へ降りる前に、支援担任が今年できたカームダウンスペースを見せてくださった。
職員玄関へ来て、ササッと靴を履いて息子と私は挨拶をして出た。
だんだん息子が4月か5月に言っていたことと、今の状況が一致してきた。
「僕がお便りを取りに行った時に、クラスの男子が僕の机を別の部屋から持って来たんだ。それで引き出しからお便りをくれたんだ。」
あの時、「そんな差別するようなことはしちゃいけない事だし、大人がお手本となる行動や言葉かけをするのを教えることも学校の役目、先生の役目だから、そんなはずないと思うんだけど。」
そう言って、息子の話をきちんと聞いてあげなかった私がバカだった。
そして、息子を習い事に送り届けた後、私は近くの大型スーパーの駐車場で心理士さんと、フリースクールの先生にLINEで知らせた。
こんなことあってはならない。
その夜から、息子は眠れなくなった。
0時を回って何とか寝てはくれたものの、寝ても悪夢を見たと朝起きてこれない。
学校へはもう行かせられない。
もう連絡もしない。
電話も出ない。
そう心に決めた。
そして数日、不眠で寝不足の子どもをかかりつけ医に連れて行って、紹介状をいただいた。
翌週受診の予約をとって、週末を過ごした。
受診して、衝撃の事実を知ることになるとは思わなかった。
続く


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