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  三十









「太夫・・・あの、ここの返しが。」


かをるが扇を片手にやってくる。
仕事のない日には、一緒にお稽古に通い、
帰ってからもおさらいを欠かさない。


「ん、こう?」
あたしの手を、真剣に見つめる。
口唇を尖らせながら、手元を必死で真似ようと動かす。
「じゃあ、一緒についてきて。」


あたしの動きに、かをるが添って、
あたしの息に、かをるがあわせる。
小さく口で拍子を取って、
扇が滑らかに返る、柔らかく背中が反る。
かをるの勘のよさは、どんどんあたしを取り込んでゆく。
零れるような清浄な色香は、芳醇な蕾が綻びんとするようで。
仕草がひとつひとつ絵になってゆく。



「かをる。」
「はい。」
「頑張ったのね。」


途端に、笑窪がちいさく浮かぶ。
あたしの言葉が、嬉しくてならないというかのように。
ただ純粋に喜んでくれる、ただあたしのことを。
こんなに無防備でよいのかとすら思ってしまう、
だから、魅かれるのだけれど。


「ただね。」
「はい。」
「あんな、怖い顔で踊らないほうがいいわね。」
「まあ。」


微笑む顔を、少しでも見たいから、
自然と軽口がついて出る。
必死の瞳を、少しでも見たいから、
あたしにしては機嫌良く,
おさらいに付きあってしまう。


そしてあたしたちは、お互いに息をあわせ、
見詰めあいながら、踊り続ける。
あの日の花弁が舞う。
遠い日の火の粉が散る。
一心に埋没してゆく、あたしとかをるの影。



「そろそろ、お仕舞いにしないこと?」




額に薄く汗など浮いたわたしとは、
まるで違う涼やかな顔で太夫が微笑んだ。
「すみません、つい・・・夢中になっちゃって。」
ああ、今日は折角のお休みなのに。
わたしったらゆっくりと休ませてあげることすら、思いつかないなんて。
「いいのよ。そんなこと。」
後れ髪を撫でながら、ふわりと太夫がこちらを向いた。



「汗・・・かいたわね。」
白い肌に上気した頬が鮮やかね。
「あ、汚いですよね。
 流してきます。」
そういって、頭を下げる。
なにをそんなに焦っているのかしら。
少し上がった息も、紅い頬も大好きよ。



「じゃあ、あたしも・・・流そうかしら。」
「え?」
「さっぱりしたら、丁度夕涼みにはいい頃ね。」










午後の緩やかな陽射しが、立ち昇る湯気に溶けていく。
こんな時間だから、誰もいない湯船であたしは思いきり身体を伸ばす。
戸惑ったかをるの顔を思い出して、口の中で笑う。
気紛れにいちいち素直に反応してくれる、
それが楽しくて堪らないのね、あたし。





「失礼します。」
俯き加減で入ってきたかと思うと、桶を抱えて片隅へ行ってしまう。
「ねえ、どうしたの。」
「どうしたって・・・?」
「そんなに端っこに。」
「いいんです、わたし。」
湯船に肘をついて、くすくす笑う太夫。
わたしってば、どうしてこんなに恥ずかしいのかしら。
いつもお風呂にはお店の皆がいる。
広々と午後の陽射しが溢れる湯屋に、今は二人きり。
ごしごしと手拭を走らせて、そそくさと身体を洗う。
ばたばた洗ってしまったら、もうすることが無くなって。




「入らないの?」
「え・・・でも、太夫が。」
「十分広いわよ。」
「はい。」


ぼんやりとした湯気の中、陽射しに縁取られた白い顔。
細くて長い首、華奢な肩が湯船から覗く。
わたしはどきどきしながら、つま先からそっと浸かる。
透明な水面を通し、沁み一つ無い真っ白な身体に向かいあう。
とろりと水面が溢れ、白い影が揺れて乱れる。



「また、端っこね。」
「だって。」


格子のりか、
お座敷のりか、
そして、閨のりか。
もう見なれているはずなのに、それでもまた初めての顔を見せる。
緩やかな光りに溶けてしまいそうな、
ふわりと天に消えてしまいそうな、
伏せた睫の面差しは、儚くすらあって。



「・・ねえ。」


ほっそりとした腕が、こちらに差し伸べられる。
「こちらへ、いらっしゃい。」
「え・・でも。」
いくらこんな時間でも、誰かが入ってこないとも限らない。
「いいわよ、誰が来たって。」
わたしの思いが聞こえたように、太夫は小さく笑う。
「ね,」



穏やかなさざ波を立てて、かをるの身体を包むように抱きとめて。
薄いかをるの背が、あたしに寄り添うように凭れかかる。
光だけが遊ぶ静まりかえった湯屋で、あたしたちはただ頬を寄せあって。
心が弛緩するような、柔らかな触れあいを味わいあう。
尽きることの無かったあたしの渇きを、
この子はただ寄り添うだけで満たしてくれる。
あなたは満たされているの、あたしに?




腕が不意に、わたしを抱き締める。
確かめるように、頬を頬が擦る。
溶けてしまいそうな肌を、掌が滑る。
擽るように胸元で小さく波が揺れる。



かをるは緩やかにあたしを受け入れる。
ゆっくりと混ぜる指に。熱くなった肌が絡みつく。
薄い背からあたしの胸へ、鼓動が直に流れ込む。
薄くひらく口元から、形のよい歯に舌を這わせる。




わたしは太夫に包まれたまま、揺られながら昂ってゆく。
それは、まるでこの世に生を受ける前の安らぎにも似て。






首筋をまた、汗が伝う。









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