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  二十











丑時の空ははしんと静まって、
月明かりの下、町は死んだように浮かび上がる。
何処かで猫が、鳴いている。





切なくてお見送りはしたくないの、
そんな女を演じてみた。
これもひとつの廓の遊び。
骨の髄まで染まっているはずだったのに。
どうしてこんなに心が軋むの。
裏腹な言葉の微かなずれが、小さなささくれのように濁った音を立てる。
それはなぜなのか、とっくに分かっている。











皆が寝静まった階段をそろそろと上がる。
気を張っていたわけでもないのに、どうしてこれほど疲れているのだろう。
あたしのつけていた仮面は、これほどに脆かったのか。



息が詰まりそうで逃げ出した。
一人っきりの部屋でいいから、逃げ込んでしまいたいと、
それだけ思って襖を開ける。
仄かな香り、薄明かり。
出ていったときとは比べ物にならぬほど、きちんと整えられた部屋。




その片隅に蹲るような紅い振袖。



今日は新造出し。
あたしの誂えた紅綸子の打掛に袖を通しながら、
気丈に微笑み続けた顔に笑みはもう跡形もなく。


「かをる。」
朱の滲んだような眼差しだけが、ぼんやりとこちらを向いた。
「かをる・・・具合、わるいの?」
あたしの言葉がわからぬように、戸惑うようにこの子は首を振る。
そして、迷子のように口を開く。
「すみません、片付けてたら。
 ぼうっとしてしまって。」
まだ紅がこびりついたままの口唇は、その迷ったような瞳とは不似合いで、
張っていた糸がひとつ切れたようで。


「お化粧もそのままね。疲れたの?」


そう言いながらあたしは、打掛を落とす。
ぎくしゃくとした動きのままかをるは立ち上がり、其れに手をかける。


「すぐに・・・片付けますから。」
「いいわよ、明日誰かにさせれば。
 今日は、もう休みなさい。」



あたしの着物を抱えたまま、かをるの動きが止まる。
柔らかな翳の輪に包まれるようにして。







仄白い明かりは、わたしの頭の中を染めてゆくようで。
なにももう、見えなくなっていた。
浮かぶのは太夫の顔だけで、
離れたくなくて、でも踏み出すこともできなくて、
ただわたしは立ち尽くしていた。


「疲れたの?」


ただわたしは首を振る。
太夫は不思議そうな顔をして、鏡台へ向かい簪を抜く。


「かをるは綺麗だから。
 人出も凄かったのね。」
こちらを向こうともせずに、ゆっくりと髪を解く。
「始めてだったのだもの、そのうち慣れるわ。」
頭を軽く振って、髪が流れるように落ちる。


慣れたくなんかない、又首を振る。


「太夫になったなら、もっと。」
鏡を見つめたまま、あたしはあたしに言い聞かせるように。
「そして面白おかしく過ごせるようになるわ。」
できうる限り明るい声で、暗い沼のような瞳を見つめながら。
「きっと、この町で一番の花魁になれるわ。」
大きく息を吸い、口の端をあげて振り向いた。



打ち掛けを抱き締めて、かをるは首を振りつづける。
足が萎えたように言うことを聞かない。



「どうして、そんな顔をしているの。」


瞳が訝しそうに眇められる。
心配そうに、でも微笑んで太夫は輪の中に足を入れる。
振り続けるわたしの頬がそっと押さえられる。
磨り減った神経は、何処かの堰を切ってしまう。
絹の山が両手から、滑り落ちる。
「わたし ・・・・」
「なあに?」



言われて駄々っ子のように蹲る。
太夫は何も言わずに、ただ背中をさすってくれる。
いつも太夫はこうやって、何も言わずに手を差しのべてくれる。
その手が触れる度ごとに、わたしはもっと触れてほしくなり。
わたしも太夫に触れたくなって、それはもう溢れる思いになり、
目を背けることすらできない。


「大丈夫よ、まだ。」
あやすように揺らすように、太夫がわたしに囁きかける。
「客は取らなくていいのよ、振袖のうちは。」




ああ、あたしときたら。
気休めにもなりゃあしない言葉を、ぶつぶつと呟いて。
あたしたちの生業で、避けられるはずもないことなのに。
かをるの顔が、ゆっくりとあげられる。
目もとの朱は、化粧の名残ばかりではない。
紅の口唇が、噛み締められ、
そして小さく開く。



「なあに。」



ぐるぐると回る言葉は、わたしの思いもかけないかたちになり、
空気を震わせる。




身体の芯が、震える。








「おしえてください。
 ・・・わたしに。」














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