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十九
暮六時の清掻が響き出す。
通りの明かりが一斉に、灯される。
華やぐ町に脂粉の香りの闇がおりる。
襖を開いた世界は、わたしが今まで眺めていたものとは違う世界のようだった。
「かをる、こっちへ。」
久方振りの紫吹太夫の顔見世に、格子の向うの人影が数を増す。
漆の櫛に鼈甲や珊瑚、金銀の意匠を凝らした簪や笄。
重そうに小首を傾げるように、鷹揚に屏風の前に横座をとる。
三枚重ねの仕掛けが、錦の波を打つように広がって。
わたしは緊張した面持ちのまま、太夫の側に腰を下ろす。
煙草盆には金銀の煙管。
匂い煙草を継ぎ詰めて、そっと太夫に差し出した.。
格子を通すのは、痛い程の人の目ばかり。
太夫の元に集まる其れは、
舐めるような吸いつくような、そしてとても重い。
こんな華奢な身体で、この人はいとも軽そうにふわりと座り続けている。
「どうしたの。」
指の震えが伝わって、太夫が低く囁きかける。
「いえ、すこし、吃驚しただけです。」
目元に細く紅を差し、鮮やかな濡れたような唇が開く。
目の醒めるような赤い振袖が、とてもよく似合うかをる。
格子の内と外では、世界は違って見える。
小さく震える手をあたしはそっと握る。
「なんでもないことよ。」
俯き気味だった瞳がこちらを向く。
「ただの灯篭だと思えばいいの。」
「灯篭、ですか。」
「ええ、お盆の回り灯篭みたいなね。」
「まあ。」
緊張が少し解けたように、口元に笑みが戻る。
「みんな、ただ、過ぎていくだけ。
本当はかたちなんか、無いのよ。」
そう、あたしの中でかたちを持つものは、
たったひとつしか無くなっていた.
二十一日、太夫は久しぶりに揚屋へ向かう。
残されたわたしは、飾り立てられて仲の町に引きずり出される。
朝からずっと落ち着かぬままに、強張る笑みを引きずったまま。
新造出しが道中をする、きまりの日なのだそうだけれど。
物見高い人々が、山をなしてわたしを見つめる。
灯篭の影たちの中を、精一杯顔を上げて進む。
厚く塗り込めた白粉が鼻につく。
口唇は紅でべたついたように濡れている。
打掛がごわつくようで、褄を取ってよろよろとかろうじて歩を進める。
どう思われてもかまわない、だけど太夫に恥をかかせたくはない。
そしてわたしにも値がつけられるのだろう。
堤燈が渦のように頭で回り溶けだす頃に、わたしは崩れるように部屋に戻る。
太夫はまだ帰ってこない。
抽斗から手鏡を取り出す。
覗くのは、毒々しいような紅の色。
舟幽霊のような白い顔。
たまらなくて簪を抜く。
縺れた髪が、一緒に抜けて。
それはおぞましい蟲のように、足元に散って。
こんな姿を売りながら、わたしはこの先どこまでいくのだろう。
一人ぼっちで、灯篭の影に囲まれたまま。
いつか影になる日まで。
もう、帰る処はない。
お父様もお母様も、わたしのことなど忘れてくれて構わない。
鬻ぐ身体は、どこにも帰る処などない。
意識せぬままに、足は太夫のお部屋に向かう。
主のいない灯りの落ちた部屋は、其れでも艶かしいほどの残り香に満ちて。
疲れて帰る身体が少しでも休まればと、あれこれと整える。
鏡台を綺麗に拭いてみる、
このあいだ替えた紫陽花も、もう萎れかけている。
敷蒲団を三枚重ねに、大きなふんわりとした掛蒲団。
皺の無いようにぴんと張る。
香は穏やかな侍従にしよう、疲れた心を休めてくれる。
へとへとのはずなのに、わたしはきりきりと神経に追い立てられる。
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