これは2023年3月の四国の
瀬戸内海沿岸だ。
まだこれは穏やかな気候だ
が、高校の時に真冬の正月
にバイクで四国を横断した
時は、ホントにくっそ寒か
った。一部の海岸線は雪が
降ってたよ、雪。まじで。
ボタン雪。
両親が高1の時に広島に転
住したが、私は残ってその
まま都内文京区の高校に通
っていた。高1から親元離れ
てるから、お決まりのもう
やりたい放題だよな(笑
四国横断の時は、東京竹下
桟橋からフェリーに乗って、
徳島港で下りて下道海岸線
をずっと松山までノンスト
ップで走った。途中、給油
1回。
イトコ家族は四人でカリー
ナGTで並走していた。
元サンパチ乗りのイトコは
「おまえ、なんでコーナリ
ングの時、膝出して横には
み出る変な乗り方するの?
なにあれ?リーンイン?」
とか言ってた。
まだ日本国内ではケニーロ
バーツが完成させたハング
フォームは殆ど認知されて
いない時代だった。当時、
すでにヤマハサテライト系
レーシングチームにいて、
コースもよく知っていたが、
サーキットでさえもまだハ
ングフォームはほとんど見
かけない時代で、無論専用
ニーパッドもガムテ豆腐重
ね貼りも存在しない頃。
専用ニーパッドとスライダ
ーが登場したのはWGPの
83年シーズン中で、83年も
各ライダーがレースごとに
別物のスライダーをテスト
していた。
84年になると83年中に好評
だった樹脂スライダーが一
般化して普及して行った。
最初は革を試したりいろい
ろやっていたが、有名なの
はケニー・ロバーツの銀色
の強力なダクトテープの重
ね貼りだった。
ただ、デルリン等のニース
ライダーと違って、ガムテ
重ね貼りというのは、豆腐
位の厚みにしてもコースを
走ると擦過傷になったりし
たんだよね。
おいらの両膝外側は擦過傷
の跡だらけで今もばっちい(笑
1970年代にはハングオンと
かハングオフとかの言葉は
まだこの世になくて、我々
レース関係者たちは「荘乗
り」と呼んでいた。
膝を出す重心移動のハング
フォーム自体は1960年代の
お椀ヘルメットの時代に既
に世界グランプリでは登場
していたが、膝を路面と接
触させはじめたのはフィン
ランド人の世界チャンピオ
ンのヤーノ・サーリネンが
初めてだった。
1972年の250クラス世界チ
ャンピオン。
だが、翌1973年、世界グラ
ンプリレース開催者のコー
ス管理運営不備により、オ
イルだらけのコースで決勝
レースが強行されて、サー
リネンは複数台の大事故に
巻き込まれて首と胴体が離
れて死亡した。
この時、同じヤマハの金谷
秀夫選手も多重クラッシュ
に巻き込まれて車両が炎上
したが、九死に一生を得た。
世界チャンピオンのレース
中の死亡事故は世界中の二
輪人たちにショックを与え
たが、当時は日本では二輪
の情報などはなく、後日、
専門誌で扱われた程度だっ
た。
日本人は大相撲の横綱の名
前は知っていても、ロード
レースの世界チャンピオン
の名前さえも知らないとい
う時代だった。
また全米アメフトのどこの
チームのクォーターバック
が誰で、などというのは当
然ちんぷんかんぷんだし、
メジャーリーグが大リーグ
と呼ばれていた頃にはメジ
ャーの選手の事など一人も
知らなかった。知っていた
のはべーブルースとジョー
ディマジオと星飛雄馬のラ
イバルオズマくらいではな
かったろうか(笑
そうした時代、1970年代、
ハングフォームで国内のロ
ードを走る人間は殆どいな
かった。
しかし、私とクラスメート
の二人はいつも峠ではハン
グフォームだった。
タイヤがプアな時代は、な
おさら必要以上い寝かさず
に高速度旋回をしたいので、
ハングフォームは今の時代
よりも別なファクターとし
て極めて有効な走法だった。
それを批判してリーンウイ
ズ一辺倒の思考硬直マンさ
んたちは、私たち二人に意
見したりしていたが、同学
年の連中も年上のベテラン
免許保持者たちも、実走す
ると軒並み我々二人よりも
遥かに鈍足で話にならなか
った。
だんだん、私とクラスメー
トの奴の実走を目の当たり
にした同学年や上級生たち
に話が広まり、一緒に実際
に走ると、言ってる事とや
ってる事が合致しているの
で俺ら二人のサーキット組
は一目置かれるようになっ
た。一目どころか、別扱い
みたいな感じで。
「おめーよー。ギターより
バイクのほうがずっといい
んじゃね?」とか言う奴ま
で。そいつギタープロ並み
だったが。
ただ、ワインディングでの
ハングフォームが突拍子も
ないような乗り方と思われ
た世相であったのは、私た
ちの周りだけでなく世間一
般的には全域で確実にあっ
た。
そして「二輪の物理」を
無視して頭ごなしに比定
する連中や層はハングフォ
ームを徹底的に批判非難し
ていた。それは何とバイク
雑誌においてもだった。
昏い。
日本人の二輪界で、目を開
いているのは、ごく一部の
コース走行と競技の世界に
精通した人たちのみだった
のが1970年代の日本のバイ
ク界の知的思考レベルだっ
たといえる。
四国横断した時、距離は遠
距離とは全く感じなかった。
地図で今見ると250km程だ
が、もう少しあったと記憶
している。
実質片道270km程なので長
距離とはいえない。
それよりも、くっそ寒くて
膝が凍りそうだった(笑
松山について親戚の家に1泊
した。元バイク乗りの義理の
叔父の家。
一緒に市内に車と並走で出た
時、私が走り出してタイヤを
温めたいのでスラロームして
ブレーキも強くかけたりを
短時間やったら、義伯父が
言ってた。
「おまえ、きっちゃない乗り
方するのう。なんじゃあれ」
と。
スラロームはあまりタイヤ温
度を上げる効果はブレーキよ
りもないが、タイヤを揉むの
には効果がある。また、挙動
不具合のチェックにもなる。
ただ、そうしたサーキットで
のマシンならしのような事な
ども世間一般では全く知られ
ていなかった時代だった。
まあ、確かに綺麗な乗り出し
方ではないが、年がら年中そ
れをやるのではない。乗り出
しの時の短時間のみだ。
ただ、物を知らない人からし
たら、たわけたはしゃぎ乗り
に見えるのだろう。
ましてや公道では。
お話はご意見としてはごもっ
とも。
ただし、公道膝出し非難と同
じく、あくまでご意見として
馬耳東風で承っておく。
四国愛媛今治(いまばり)から
またフェリーに乗り、本州広
島県の三原糸崎の港に入って
下船して三原市内の両親が転
居した家に行った。
帰りはまた船で三原から今治
まで行き、そこから陸路で徳
島港まで行き、東京までフェ
リーだった。
とにかく、寒すぎた二輪での
走行だった。全行程で途中
短時間一か所海岸沿いで雪
だっただけで、あとは概ね
天候に恵まれたのは幸いだ
った。無事故、無検挙で帰還
した。
でも、ほんとに寒かった。
真冬の都内グールグルとは全
然違うので参っただよな。
オートバイ乗るのに体力は
さして要らない。耐久レー
ス以外では。
ただし、身体用法を正しく
使わないと、いろいろと不
具合を生じたり、まともに
二輪を走らせられなかった
りする。
二輪に載ってトロッコみた
いに場所を移動するだけな
らできようが。
まともに「乗る」には、頭
と身体を使う。
があれば、モーターサイク
ルに乗ることができる」
(ヤーノ・サーリネン)