1970年代の最悪のバイク7台と
最高のバイク6台
私が16才高1で自動二輪の
免許を取った時の教習車が
これ。RD350のこの機種。
最高に良いオートバイだっ
た。
私が免許取得した頃は、教
習所では実技講習を受ける
バイクを自分で選べた。
ホンダの古い4ストとヤマ
ハの2スト。私は迷わずヤ
マハを選んだが、人気は
ホンダの鈍重な4スト車に
集まり、2ストは皆が嫌っ
ていた。私にとってはラッ
キーな事だった(笑
実技講習の現場で「きょ
うはこれ」「きょうもこれ」
というように個体そのもの
も選ばしてくれた。
ヤマハRD350、最高だった。
「軽さは正義だ」とも思っ
た。
ところが、高校時代に何台
か持ったバイクはRDではな
く別な車種にした。
走らない音だけオラオラバ
イク、曲がらない直線番長
バイク、見た目とっつぁん
バイクだが少しいじるとカ
フェになるも振動大きすぎ
て長距離不向きのバイク、
ちょい乗り便利だが高速道
には乗れないバイク、いろ
いろあった。
総体的に言えたのは、ハン
ドリングの悪さだった。
同級生のS特進のクラスメ
ートで後年国際A級になり、
マン島を走った奴が普段乗
りしていた角タンクのRDに
乗らせてもらうと頗る良い。
やはりヤマハだなぁと思っ
ていたところ、大学時代に
水冷RD350、国内名称RZが
出たので即新車購入した。
入庫半年待ちとかになって
いたので、伝手から探しま
くってもらい、埼玉の奥の
行った事も無い町のショッ
プで1台確保できた。
これがまた出来が良すぎる
二輪で大満足だった。ブレ
ーキングしながらコーナー
に突っ込む時にフロントが
よじれる事以外は。
程なく初めて発売されたブ
リジストンのハイグリップ
スポーツタイヤを新宿御苑
近くのショップでTT100か
ら履き替えて履かせていた。
1回目の車検前に横浜でそ
のRZ350は丸ごと盗まれて
しまった。隣りの部屋のKO
のFX乗りの奴の話だと、私
の留守中に夜中に平ボデー
のトラックで来て、作業ツ
ナギを着た人間が数人で積
んで持って行ったのだそう
だ。
なんだそれ?
翌日から、二人で話し合い、
太いチェーンでそいつのFX
と私のセカンドバイクの原
付カワサキARのホイールを
繋いで、さらに鉄柵にも繋
ぐようにした。二重三重に。
そして、振動感知警報機を
着けた。RZでも早期にそれ
をやっておくんだった。
その後、翌年スズキRG250
ガンマを買うが、警報機装
着によってか、部品盗難や
車体盗難には全く遭わなか
った。
だが、今の時代だったら、
当時は一部カワサキファン
を除いては不人気だったFX
のほうが最大盗難対象車両
だろう。ホンダのCBXとか。
しばらく不在となっていた
マルチ4ストが復活した時は、
一部マルチファンにとって
は垂涎だったが、今のよう
な異常中古市場価格のよう
なものはなく、それは静か
なファン層の人気としてあ
った。
時代は2スト、時代はレーシ
ング風味の風が吹き始めて
いた頃だった。
ただ、本格的なレーサーレ
プリカの時代は1980年代
後半以降に到来する。
1980年代前半は、総体とし
ては普通のロードスポーツ
バイクが多少尖鋭化しただ
けで、当時が遠い過去とな
った21世紀の今の時代に
よく言われる「1983年のス
ズキガンマの登場によりレ
ーサーレプリカの時代が始
まった」とするのは、多少
ピントがずれている。
的確正確な時代認識とはい
えない。
多分、その時代には生まれ
てもおらず、時代の空気を
実体験していない世代の人
が物を書いたり言ったりし
ているのではなかろうか。
ヤマハの歴史に詳しい人は、
ヤマハが大昔からずっと、
つまり最初から「ハンドリ
ングのヤマハ」ではなかっ
た事を知っているだろう。
特に1970年代初期前後の
ヤマハの4ストなどはひど
いハンドリングだったし、
大型4ストにはそれが顕著
だった。
ヤマハは公道市販車では中
軽量級の2ストにおいてグ
ッドハンドリングのノウハ
ウを発揮できたといえる。
それは、ひとえにレースで
の実績からの公道車作りへ
のフィードバックが大きか
った。
ヤマハとホンダの決定的な
違いは、ホンダはレース部
門と公道車部門をきっちり
と分けていて、製作者同士
が相互に技術交流する事は
公道用NSRが誕生するまで
は存在しなかった。
ヤマハは早くからレースで
得たノウハウを公道市販車
にも投入する事をやってい
た。
その違いは製造発売される
公道市販車に色濃く出てい
たのが、1986年暮れまでの
日本のヤマハとホンダの車
の特徴だった。
一方、スズキは安定した総
合力を見せるメーカーだっ
たが、1970年代のある時期
からグンとよくなり、その
後ヤマハもある時期からパッ
と素晴らしい車になった。
これには、スズキ→ヤマハ
→スズキ→ヤマハと移籍し
ながらオートバイを開発し
た河崎裕之さんの存在がと
てつもなく大きい。
自身も実力あるレーシング
ライダーだが、ヤマハの金
谷秀夫氏、高井幾次郎氏と
並んで世界一の二輪を作り
上げた一人だと断言できる。
世界チャンピオンのスズキ
のバリー・シーンの車は彼
が作った。
業界人からは「シャケさん」
と呼ばれて親しまれている
人が河崎裕之さんだった。
ある意味、メーカーの創業
者たちよりも偉大な存在だ
といえる。1945年生まれ。
現在はヤマハのレーシング
アドバイザーとなっている
が、名門レーシングチーム
であるプレイメイトレーシ
ングの代表でもあった。
無敵時代のスズキとヤマハ
の世界チャンピオンマシン
は河崎シャケさんが作り上
げた。特に1984年型のYZR
は歴史に残る名車だった。
1988年に現役レーシングラ
イダーを引退するまで、常
に全日本でもトップ域を走
っていた人で、43才になっ
ても若手選手相手に先頭集
団を走るとか、超人的な走
りを見せる人だった。
競技選手専門ではなく車を
作る開発者だが、自ら作り
上げた車に自らが乗って全
日本選手権で走り、また車
の改良に取り組む。
ホンダのように運転手(競技
選手の事)と作り屋(メーカ
ーおよび開発陣)を別部門で
分けるのではなく、開発者
自身が自分で走らせて二輪
作りに深く中心部分で関与
する。それがヤマハの手法
だった。
紆余曲折、試行錯誤は常に
あったが、地に足の着いた
しっかりした歩調で前進し
ていたのがヤマハというメ
ーカーの二輪車作りの特徴
でもあった。
「乗る人間」の事を第一に
考えて、それを二輪車開発
の中心に据えたのがヤマハ
というメーカーだったのだ。
シャケさんの後には平忠彦
氏が後継し、その後は本間
利彦氏がマシン開発を担当
した。
ヤマハのマシン作りは常に
「人あり」の車作りだった。
かつては。
今はよく知らない。
ただ、現状の世界最高峰競
技を見る限り、世界チャン
ピオンが乗っても転ぶ二輪
しか日本メーカーは作れな
くなったので、今の日本メ
ーカーはかつての日本メー
カーとは根幹部分が変質し
たのだろう。
コンピュータデータのみで
車作りなどできる訳が無い
のに、とは思う。
開発者自身が今のレーサー
に乗ってレースに出てみれ
ばいいのに。
転んで死ぬから。
そういう二輪車作りって、
はなから間違いなんだよね。
方向性が。
日本社会がある時期から大
きくボタンを掛け違えるよ
うになった。
それは世代の層としての変
換と軸線を同じくして。
円周率3育ちで、ずっとモ
二ターを観る生活ばかりで、
画面から得た物が世界観の
すべてであるという世代層
が日本の産業分野や教育や
医療等々の現場で中心的存
在となる中年層を形成する
時代あたりから、日本の力
はガクンと急降下で下落し
た。
これは社会的変遷として確
実にある。
同時期にイジメ、パワハラ、
誹謗中傷等々陰湿な事が社
会全体に広がり、また国内
で国民相互総監視体制が形
成された。
結果、ニセ正義マンとコン
プラ私設警察、良市民ぶり
の虚飾の日本人が大量発生
し、社会的な健全な節度は
もはや日本においては崩壊
した。
すべては連動している。
オートバイという単体の乗
り物の歴史的移り変わり一
つを見ても、それは日本社
会の変質の一部として如実
に顕在化していることが容
易に看取できる。
とても分かり易い世の中に
なったと同時に、とてもす
っからかんの中身無しの時
代になっているのを痛感す
る。