「今度引っ越してくるものです」と挨拶をくれたその人は、名前を言う段で舌が滑り、自分の頬を軽く叩いて言い直した。それで伝わり、名前を覚えたのだけど、言い直さなくても伝わった、ある音という次元で伝わった。私は聞き返さなかっただろうと思う。どんな名前の人が、ではなくどのような人が越してくるのかという点に興味があるからだ。現に、伝わった名前を二週間経った今、すっかり忘れている。
私は噛むとか滑舌とかに鈍感らしい。「ほとんど何言っているかわからない」と今までに指摘されたことはあったが意味がわからない、と取っていた。最近ある人に滑舌が悪いことを指摘され、それ以前の問題だったと知った。その人とはたくさん喋った。時には喋らされていると感じながら喋る時もあった。言葉になるものが準備されないうちに状況の引力が引きずり出して、体が喋る動きだけしている状態の時、徐々に体の違和感の方へ気がいってしまう。話されていること、聞こえることに耳がいかなくなって言葉がグダグダになっていく。語尾に到達する前に唇がしぼんでいく。唾液が多く出る。ああ、そんな時確かに私はごにょごにょ言っている。「滑舌」は「舌」が問題にされているものだと字義に惑わされていた!なんなら文章においても滑舌はある。文章にも話者の身体が根付く語りがあるからだ。
井戸川射子『ここはとても速い川』初読時は誰が話していて、どんな状況かということが中々掴めず、子供が喋り動き回っている感じみたいなものが伝わってきて、「子供」を経験したことがある私の記憶の部分が反応する読書だった。
外遊びの時間、木の陰で暑そうにしてる優衣先生の横に座る、俺らよりも眩しそうにしてる
とその小説から一文を抜き出してみた。話者の動作に根付いて優衣先生の様子が明らかになっていく。横に座ることで初めて眩しそうにしている表情が見える。話者が動いて見えた(感じた)ことを書く語り。小説で展開される世界が話者の知覚に根付いていることから考えると、「してる」の「い」の省略や、「してる」、「座る」、「してる」と語尾の音感が反復されるのは口語に近づけるという意図というよりも、情報や修飾を加えて噛むよりも正確な伝達に重きをおく「失敗」を回避する話者の意識が反映されているゆえの息継ぎが短く「簡素」な語りで、それが話者の身体に根付いた語りである。
体の諸器官が複雑に連動することで声は出る。肺から出た空気が、左右一対の襞からなる声帯の門のような狭い隙間を通る時に振動が生まれる。この段階では振動はシンプル「ビー」というブザーのような音で、喉頭、咽頭、口腔、鼻腔を総称して「声道」と呼ばれるトンネルを通るうちに多様な音に加工されていく。「あ」「い」「う」「え」「お」の母音は声道の形状を変化することで生み出され、さらにそこに破裂音、唇や舌による摩擦音、などの子音が装飾する。
体が成長するにつれ、われわれの多くは無意識に、よりスムーズに声を出せるようになるが、まだ体が喋る運動に慣れていない間は、音によっては声が出づらかったり、途中で止まったりする。上の声を出る仕組みは伊藤亜沙が「吃音」という症状に対して身体を中心に考察した『どもる体』では、「気象予報士」を「お天気の人」と言い変えるなどして症状をおさえる工夫があるらしいが、それに似た、声が意味として伝わりながら自分の実感も握りしめる集の意識が「簡素な」語りには感じられる。
伴って思い浮かんできたのが、歌仲間のWがビデオで見せてくれた甥っ子の運動会の姿だった。おたまを持ちながらかけっこをしていて、おたまの上には小さなボールが乗っている。それを落とさないように気をつけながら速さを競う演目であるらしく、一緒にスタートした園児は早足で進む一方で、甥っ子は落とさないことだけに必死で、他の園児たちがゴールをした後も焦ることには思いもよらずペースに巻き込まれることなく、慎重に歩き、ボールを落とすことなくゴールした。
集は知り合いになった大学生のアパートの階段の下に咲いているアガパンサスを見つけ、移し変える計画を立てる。
「でもあそこ日も当たらへん、俺が見にいく時間だけかもしれんけど。あんな奥の階段の下で、雨も土に落ちたやつが流れてくるだけや、上から受けることもなくて。俺らは移動できるけど花はかわいそうやんか」今でも元気に生えてるんじゃないかな、とひじりは自信なさそうにした。まあ一人でもいつかやるけど、茎の下に葉っぱのかたまりがあるし、抱えきれるか分からんけど、と呟くとポスターの肺らへんを眺めながら、一緒にやってみようかとひじりが言う。「見つかったら怒られると思うで、誰かの花なんやし。プチトマトの枯れたやつ、鉢から引きずり出すんかて大変やったけど。結構大きな花なんやんね?でも移動が、集君にとって大事やんね?」(傍線引用者)
(アガパンサス)
彼らは世界で何かを為すことには自信が欠けることを発見する。集には花を見にいけない時間帯があって、アガパンサスの花は一日中陽に当たってないわけでもないかもしれない。ひじりは現時点で元気に生えているアガパンサスと栄養補給が充分取れている辻褄を合わせない。集は「一人でやる」と強い意志を持っているようでありながら、アガパンサスを一人で抱えられるか気にしている。やったほうが良いと思うことに対して自信を持てないと書くと矛盾しているようだが、自分がいいと思うことが誰か(何か)にとっては良くないことになりうる世界で、実際の体験や観察に基づいて情報を得るしかない集は不安だらけだ。アガパンサスを何日も続けて観察し、生えているところの地主に、移動先の地主に確認を取った上で初めて行動に移るというのが「大人」で、周到なやり方だろう。「子ども」の集は児童養護施設で暮らしていて、一日をましてや個人の事情で自由に過ごせる環境にいないし、土地を管理している人へ話してみても「子ども」として話を真剣に扱ってもらえない可能性はある。集は大人/子供という区分で社会の扱われ方が相当に違うことを肌でわかっている。というか、子供はどこかの時点でそう感じるから言葉を希求するのではないか。言葉が未だ「完全」ではない集は自らの思いと人への伝わり方を尊重する語りに集中する。集にとって「移動」が大事なように、Wの甥っ子は「落とさないこと」が大事で、それだけ純粋に集中していた。そうした個人の健やかな意志を観察している誰かがいて、6月7日国立南口の増田書店にてライブを行ったジョンのサンのベース、ヴォーカル、バイオリンを担当していた友人がある日、ある人への目撃者だった。
記憶違いもあるかもしれない。ビルの中に建てつけのよすぎるスライド式のドアがあって、誰かが開けると流暢に滑るので、勝手に閉じるし大きな音を立てる。そのドアの特性をわかっているらしき人がドアの出ていく際にその後ろからも他に出ようとしている人がいて、そのドアの特性を知らない人が予測するよりも早い時間で閉じるドアに驚かないようギリギリまで後手にドアを押さえていたということをいちいちの細部をジェスチャーを交えながら組み立てて、ところどころ声を震わせながら喋っていた。
その人のドアを押さえる手は閉まりいく速度が加わった分相当な重みを受け止めたはずでそれをギリギリまで開けていようとする手は震えていたかもしれない。少しでも間口を開けていようとする、そうした小さな瞬間を目でとらえる。街の良心を信じようとする気にさせる出来事をあの場にいた人々に伝えようとした友人の震えた声によって震える手の様子が浮かび上がり、震えたちが喚起させたのがベンヤミンのクレー『新しい天使』について言及しているテキストの中での天使の羽ばたきだった。
「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来の方へ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、この強風なのだ。(傍線引用者)
ベンヤミンが言うように「新しい天使」の天使は目が大きく見開かれている。笑っているようでもあり、にらんでいるようでもある表情は喜怒哀楽がつかめないが何かを見ているそのことだけがひしひしと伝わってくる表情だ。視線の先はわからない。人によっては怖いという印象をもつかもしれない。(初めてこの絵を見たときの私がそうだった)クレーは天使の絵を他にもたくさん描いているけど、「忘れっぽい天使」や「泣いている天使」の方がわかりやすく天使の見た目をしている。友人を天使視するわけではないが、友人はたまに大きく目を見開く。事実、私がMCよかった、と伝えた時「やった」と目が大きく見開いた。
上のテキストが収録されている『歴史哲学のテーゼ』は、ベンヤミンが長年住んでいたパリをナチスドイツに占拠され、心臓に不調を抱えながらも亡命のために険しい山を歩きやっとたどり着いた地でアメリカ合衆国へのビザ発行がおりず、モルヒネを飲み自死した時期に書いた、遺稿とされている文章だ。背景を知ればカタストローフが第二次世界大戦を指し、辞書的な意味でも天災や人災を指す語を「建てつけのよすぎるドア」と対応させるのは大げさすぎる気もするが、大げさというのは漢字にすると大袈裟であり、ブカブカの袈裟である。「成立してから時を経た諸作品に対して、媒質は、再三再四変わる。(…)媒質は同時代人たちに作用した際の媒質よりも、つねに、かなり薄い」というベンヤミンの言を携えて蛮行を行おう。
友人はドアの話をしていた時、ドアを押さえていたその人が偉大なので、と当人がいない場だからこそ語れる、と繰り返し言っていた。
以前、自分が信じている大きなものから見放されると感じた時、私は無鉄砲な気分に陥る。何か悪いものに振り回されて乱心する、と友人へ伝えた時、大いなるものを信じている点には共感しながら友人はそこに善悪の区別をつけず、自分の行動とかを、自分を見ている(自分にとっての)神(的な存在)に恥じないようにしたい。それによって生まれた自分の行いは結局そうでしかありえなかったから神にそれを恥じるも恥じないもないというように考えるようにしている、と言った。
私はこの「している」という所に友人の握力を感じ、私が想定する太平なる大いなるもの/乱す大いなるものの、乱す方に自分の指針が破壊されそうな時は太平なるものへ歩み寄ろうと自分は動くことはできると考え、ひとまずの安息をつくことができたが、私は未だ私にとっての神(的な存在)を信じきれていないことを痛感した。
上で私を見ていたものが社会だったり、出自的なものだったりすることがあるからだ。それは用意されたもので自分が生きていく過程で建設されたものではない。見放されたという感じは社会や出自の元に自分が囚われて、自分の生とかかわる大いなるものを忘れているにすぎない。動き回っているのは自分の方なのだ。けれど、渦中にある時は冷静さを失う。そんな時に浮かぶのは秋葉原通り魔事件の加藤智大のことだ。
加藤は被害者に向けての手紙で「私は小さい頃から「いい子」を演じてきました。意識してやっているわけではなく、それが当たり前でした。今ではそれがおかしなことであることはわかっていますが、「いい子を演じない自分」を意識しないと、本当の自分が出てこない、という倒錯した状態になっています」と書いている。加藤がネット掲示板で残した書き込みを読むと、「ホンネ」というものに強くこだわった人物であったことがうかがわれる。善とされる行為を自分の本意を裏切って行い続けてきた時間の蓄積があるために、善ではない行為でしか自分の本意を遂げられない=倒錯とする加藤へ私はその時間の蓄積のために自分の本意が遂げられない自家中毒的な不自由さに共感を持つ。時間的な蓄積は自らの体に溜まっているから私は自傷、自虐を行いたくなる。それは、自己全体を否定したいからではなく、自分を押し曲げてしまう習慣・過去・経験といった部分的な自分を破壊したいという欲望である。また、加藤は「いい子を演じない自分」を意識しないと、と書き、どちらにせよ演じてしまう自分からは離れられないことに気づいている。
演じることから離れられないのならば「ホンネ」は夢想に過ぎないのか、加藤は「ホンネ」を言う他者も求めていたけれど、他者の目に映る自己の「ホンネ」を直接その通りに感じることはできない。そこで伝達に使われるツールは言葉やアイコンタクト、表情や身振り、いろいろあるけれどそれらも他者の分だけ傾向がある。そこから「ホンネ」を聴き取るにはその他者が使う伝達に対して熟練しなければならないから自己と他者を知ることは共同して行われる。自他共に生きる現実の中で、それぞれの演じ方を知り、他者が放った言葉に演じ方を差し引いた時に「ホンネ」が現れるが、「ホンネ」も持続するものではない。体の震えは狙って起きるものではない。
友人が当人がいない場所にこだわったのは、ドアを開けていた人が自分のことが語られていることを知ったとたん、別の意識が差し込まれて、演技が増してしまうことを警戒した、そのことへの留意だととってみる。誰でも小型のビデオカメラを持ち、他人を撮り、他人の映っているものは意味付けされ、様々な意味がパッチワークされたネット空間で街中で起こった地味な「いい行為」も賞賛や数字で肉付き、当人が習慣とすることもその行為を見て晴れた人々の気持ちも重くなる。天使は当人が思いもよらなかったことを知らない場所で静かに拍手している。友人はその人を褒めたいが、天使が褒めるぶんもその人へ残しておきたくて震えていたように思う。
種としてまかれる言語(マーク)はけっきょくのところ、主体が予定した企てを実現し、その豊かな「実り」を収穫するための資本であり、道具にすぎない。まかれた種は、なるほどさまざまな意味や効果を生み出すかもしれないが、それらはすべて収益として主体の懐に回収され、種まく人=ロゴスの父に戻ってくる。つまりこの場合、言語(マーク)は他者に向けて発せられたように見えながら、じつは自己から出て自己へ帰ってくる循環過程のなかにあり、家内(オイコス)の法(ノモス)たるエコノミーのうちにとどまっているのだ。(……)
「散種は父に帰属しない=回帰しないもの(ce qui ne revient pas au pere)を表わす」。言語(マーク)の主体=種まく人=ロゴスの父は、散種の効果のために、さまざまな意味や効果を自己の仕事の「実り」として、収益や収穫
として回収することができなくなる。散種的な〈種まく人〉は、もはやそうした回収を欲しない。言語(マーク)を発するとき、無際限な反復に巻きこまれることで生じる主体の主権の剥奪、父の形而上学的権威の崩壊は、ここではもはやネガティヴな喪失、本来的自己からの疎外として経験されるのではなく、絶対に自己へと回収しえない「まったき他者」、他者としての他者、他者でありつづける他者への移行として、呼びかけとして、贈与(don)として肯定される。(傍線引用者)
「散種」というのは、哲学者ジャックデリダの概念で、一つのマークを様々な解釈へ開く意味合いを持ちながら、「多義性」とは区別する。デリダはどのような迂回を経ようと、最終的には「一テクストの全体性をその意味の真理において一つに結集」し、多様な解釈も結局は一義性に回収されるのだという。そこで、「散種」の概念には「意味の破裂、炸裂」というイメージが加えられる。
不可抗力的に意味に至れないものが意味以前の空間を行き来するビジョンは、何かを意味付けても時間という不可抗力で崩れ去る人生のもどかしさを体現しているという意味付けも、明日には消し去りたくなる。
友人は演劇に出演する人でもあり、今まで7公演見て「別人のようだった」という感想を持ったことはない。私には、私の人生には、私の生活には、何もないという嘆きに対して、「何もないことがいいのかもしれない」と返したその友人の言葉を時折思い返してます。