“忘れられた日本人”~戦後80年に託す最後の願い~

“忘れられた日本人”~戦後80年に託す最後の願い~
戦後80年となる今年4月、フィリピンを訪問した石破総理大臣が真っ先に面会した人たちがいました。

日本人の移民と現地の人との間に生まれ、太平洋戦争で親を失うなどしてフィリピンに取り残された、いわゆる「フィリピン残留日本人」です。

「“忘れられた日本人”と呼ばれた私たちの願いはただ一つ。日本人として認められ、父の故郷である日本の土を踏むことです」。

そう訴えた残留日本人たちは、どんな思いで戦後を過ごし、今なお日本国籍を求めるのでしょうか。

首相とフィリピン残留日本人の面会

4月末、フィリピンに外遊した石破総理大臣は、3人の「フィリピン残留日本人」と面会し、次のように語りかけました。
石破首相
「戦後、皆さま方が長い年月にわたってさまざまな困難苦労を体験してこられました。すべての方の国籍取得が実現していないことは、非常に私自身残念であり、悲しいことです」
これに対し、残留日本人を代表してあいさつした寺岡カルロスさん(94歳)は、流ちょうな日本語で訴えました。
寺岡カルロスさん
「戦後80年という年に、長らく“忘れられた日本人”と呼ばれてきた私たちの願いはただ一つ。日本人として認められ、父の故郷である日本の土を踏むことです」
“忘れられた日本人”。寺岡さんがそう表現した背景には、残留日本人が歩んできた苦難の人生がありました。

フィリピンの移民社会 ~繁栄そして衰退へ~

戦前、アメリカの統治下にあったフィリピンには、数多くの日本人が出稼ぎのため、移民として渡りました。
3万人ともいわれる日本人がフィリピン各地で暮らし、東南アジア最大の移民社会が築かれていたといいます。移民の大半は男性で、現地のフィリピン人女性と結婚し、家庭を持つ人も現れました。

寺岡カルロスさんの父、宗雄さんも山口県から移民として渡り、母アントニーナさんと結婚。寺岡さんら6人の子どもに恵まれ、建設業で生計をたてながら安定した生活を送っていたと言います。
寺岡さん
「父は棟りょうをたくさん雇っていて、35歳で自分の自動車を持って、運転もしていました」
しかし、宗雄さんは41歳の時に病に倒れ、帰らぬ人となりました。

さらに、寺岡さんの暮らしを一変させたのが、太平洋戦争の開戦でした。

1941年12月、旧日本軍がフィリピンに侵攻すると、寺岡さんたちは敵国の父親を持つ子どもとして、突如、敵意を向けられる対象となったのです。
その後、国内各地で、アメリカ軍から支援を受けたフィリピン人による抗日ゲリラの活動が活発化していきます。
寺岡さん
「フィリピンの抗日ゲリラは日系2世を一番嫌っていました。一方でわれわれ日系人は、日本語に加え、現地の言葉も話すことができただけでなく、英語も話すことができたため、ほとんどが日本軍の通訳にされました」
戦況が泥沼化し、犠牲者が日に日に増えていく中、日本の憲兵隊の通訳として働いていた寺岡さんの2人の兄は、旧日本軍とフィリピンの抗日ゲリラの双方からスパイと疑われ、射殺されました。

さらに、寺岡さんの母親は、寺岡さんと山中を逃げ惑うなか、アメリカ軍の空爆で、目の前で亡くなりました。
寺岡さん
「破裂した破片が心臓を突き抜いたのでしょう。母親はうつ伏せになって倒れました。僕らはフィリピン、アメリカ、そして日本の3か国から敵と思われていたのです。本当に苦しい状況でした」
寺岡さんは、その後、アメリカ軍の捕虜となり、14歳で孤児となりました。

一方、父親が現地で築いた財産は、すべてフィリピン当局に没収されました。
そんな寺岡さんを反日感情が渦巻く戦後のフィリピンで待ち受けていたのは、激しい差別と迫害でした。

しかし、日本国籍を取得しようとしても、寺岡さんが日本人だと証明するものは一切残っていませんでした。
寺岡さん
「私は捨てられた日本人です。誰も相手にしてくれない日本人なのです」

父系血統主義だった日本とフィリピン

外務省の調査によると、寺岡さんのように、戦争によって家族を失い、フィリピンに取り残された子どもたちは、これまでに確認できただけでも3815人にのぼります。
そもそも戦前、日本とフィリピン両国の法律では、「父系血統主義」がとられていました。つまり、父親が日本人であれば、子どもも自動的に日本国籍となったのです。

しかしほとんどの残留日本人は、父親との父子関係を証明することができませんでした。戦中・戦後の混乱で、日本国籍の取得に必要な出生や両親の婚姻を証明する書類を紛失したり、迫害や差別をおそれ、そうした公的書類や一緒に写った家族写真をみずから焼き捨てたりするなどした人も多かったといいます。

こうして、無国籍の状態のままフィリピンに取り残され、隠れて生きることを余儀なくされたのです。
寺岡さんに転機が訪れたのは、20歳になった頃。フィリピンでは成人した時に、フィリピン国籍を選ぶことができることを知ったのです。

無国籍状態で生きることに大きな不安を抱えていた寺岡さんは、生活のため、フィリピン国籍を取得することを決断しました。その後、独学で木材や農業の事業を興し、生活を再建していきました。

同胞の力になりたい ~日本政府へ訴え続けて

事業で成功を収めた寺岡さんが還暦を過ぎた頃、2つ目の転機が訪れます。1995年、日本外務省が残留日本人の実態調査をフィリピン全土で初めて行ったのです。

調査に協力した寺岡さんは、同胞の厳しい現実を目の当たりにすることになります。2000人余りの残留日本人が日本人の子どもだと名乗り出ましたが、そのほとんどが無国籍の状態のまま、厳しい生活を送っていました。寺岡さんは同胞たちの厳しい現状を変えたいと立ち上がります。
フィリピン日系コミュニティーの代表として支援団体と共に日本を訪れ、日本政府に国籍を取得するための支援を求める活動を始めたのです。しかし、抜本的な対策が示されないまま、月日が過ぎていきました。
寺岡さん
「日本人であることを認めてください。父とそのつながりを認めてください。残留者たちが最後の1人まで置き去りにされることのないよう日本政府のみなさまの取り組みをせつにお願いいたします」

NPOにより続けられた国籍回復支援

日本政府から支援が得られない中で、20年余りにわたり、残留日本人の日本国籍取得を支援してきたのが、東京に本部を置くNPO「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」です。
このNPOは、父親とのつながりを証明する両親の婚姻証明書や子どもの出生証明書など、父と子の名前が記された公的書類を捜し出すため、当時の両親を知る地域の長老へ聞き取りを行ったり、出生地の役場をくまなく訪ね歩いたりすることを続けてきました。

さらに、戦前に作成された外務省の「海外渡航記録」から父親の名前を見つけ出し、そこに記された住所から日本で親族を捜し当てたこともあります。そして親族から、祖先がかつてフィリピンに渡り家庭を持ったという情報を得るなど、地道な証拠集めに取り組んできました。

NPOが集めた証拠は、日本の家庭裁判所に提出され、新たな戸籍を得ることができました。こうした努力が実り、NPOの支援のもとで、これまでに323人が日本国籍を取得できたのです。

一方、およそ1800人が日本人と認められることなく、無国籍の状態のままこの世を去りました。

太平洋戦争の終結から80年を迎えて、身元を証明する手がかりを得ることはますます難しくなっています。それでもフィリピンには今もなお、49名の残留日本人が日本国籍の取得を求め続けています。

NPOの代表、猪俣典弘さんは、国籍取得のための調査は年々困難になっていると言います。
猪俣典弘代表
「今、残っている方々は証拠が乏しく、立証が難しいケースばかりです。高齢のため、もう5、6年も待てないです」

寺岡さん
「待てないですね。何とか良い解決方法はないでしょうか」

相次ぐ無念の死

NPOの猪俣代表はこの日、6年前に日本国籍を取得するための親族探しを依頼されていた男性の自宅を訪ねました。志し半ばで、亡くなったとの知らせを受けたからです。
ナカマ・ロドルフォさんは、父親の身元がみつからないまま、昨年、80歳で亡くなりました。亡くなる直前まで祖国・日本への思いを口にしていたと家族はいいます。
ナカマさんの息子
「父は日本の親族に会いたいと最後まで願いながら亡くなりました」
猪俣さん
「ナカマさんは、本当に情報がなく典型的な今も残されているケースでした。一番のハードルは、お父さんの名字しか分からないことで、それ以上は調査を進めることはできませんでした。日本国籍を取得するため、親族を捜す途中で亡くなってしまいました。ただただ手を合わせるしかありません」

動き出すか、日本政府

こうした中、今年3月、日本の国会で新たな動きがありました。石破総理大臣が答弁で、日本政府が初めて公費で、残留日本人を日本に招いて身元捜しを行う「一時帰国事業」の方針を打ち出したのです。
石破首相
「戦後80年です。日本国民の負担において渡航の費用、あるいは親族捜し、そういうことをすることは、私は十分理由のあることだと考えています」
かつてない踏み込んだ方針に、残留日本人や支援を続けてきたNPOは、大きな期待をよせています。

戦後80年 一時帰国の実現へ最後の望み

NPOは、平均年齢が84歳になった残留日本人たちには一刻の猶予もないとして、身元捜しのための来日を実現させるために動き出しています。
この日、猪俣さんは、20年にわたり日本国籍を求め続ける残留日本人のタケイさんの自宅を訪ねました。それぞれの願いを聞き取り、来日への意思や、長旅に耐えうる健康状態かどうかの確認を進めています。
猪俣典弘代表「希望は何ですか?最後の願いは何ですか?」

タケイさん「日本に行けたらうれしいです。もう若くないので、できるだけ早く。そして、私の親戚に直接会いたいのです」
猪俣典弘代表
「今年は、80年という節目の年で、彼らには“90年”はありません。今年中にできる限りの人たち、そして国籍回復の可能性が高い人たちをまず日本に連れて行って、身元捜し、そして国籍回復の手続きに入れたらと思っています。

この問題だけは誰かが手を差し伸べなければいけない問題です。首相との面会がゴールではなく、身元を捜し、国籍を回復することがゴールなのです。

彼らにとっては、まだ戦争は終わっていません。戦争とは、それほど長く、高くつくものです。これは、加害者である日本とわれわれが向き合うことができる、数少ないチャンスでもあるのです」

取材後記

首相が一時帰国の支援を国会の場で表明し、マニラで残留日本人との面会を果たしてから2か月。今も国は一時帰国に向けて具体的な時期や支援内容を明確にしていません。

日本の戦争で、戦中戦後と厳しい暮らしを強いられ、無国籍の状態のまま人生の晩年を迎えているフィリピン残留日本人の方々に、私たち日本人がどう向き合うのか、戦後80年の節目に問われています。
(6月2日 国際報道2025で放送)
報道・映像センター カメラマン
桑原義人
釧路、沖縄、大阪、東京、横浜を経て現所属
学生時代にフィリピンで残留日本人問題に関わる
入局後はライフワークとして取材を続けている
マニラ支局長
酒井紀之
国際部、スポーツニュース部を経て現所属
隣国フィリピンの現在と過去をひもときニュースで伝える
報道局政経国際番組部
丸岡樹奈
現部署が初任地
ウクライナやガザなど
世界各地で起こる戦争や紛争の
当事者たちを取材
報道局政経国際番組部
酒井有華子
沖縄 東京 大阪を経て現職
太平洋戦争や現代の紛争
人権問題などに向き合い
番組を制作
“忘れられた日本人”~戦後80年に託す最後の願い~

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特集
“忘れられた日本人”~戦後80年に託す最後の願い~

戦後80年となる今年4月、フィリピンを訪問した石破総理大臣が真っ先に面会した人たちがいました。

日本人の移民と現地の人との間に生まれ、太平洋戦争で親を失うなどしてフィリピンに取り残された、いわゆる「フィリピン残留日本人」です。

「“忘れられた日本人”と呼ばれた私たちの願いはただ一つ。日本人として認められ、父の故郷である日本の土を踏むことです」。

そう訴えた残留日本人たちは、どんな思いで戦後を過ごし、今なお日本国籍を求めるのでしょうか。

首相とフィリピン残留日本人の面会

4月末、フィリピンに外遊した石破総理大臣は、3人の「フィリピン残留日本人」と面会し、次のように語りかけました。
フィリピン残留日本人と面会する石破首相(マニラ 4月末)
石破首相
「戦後、皆さま方が長い年月にわたってさまざまな困難苦労を体験してこられました。すべての方の国籍取得が実現していないことは、非常に私自身残念であり、悲しいことです」
これに対し、残留日本人を代表してあいさつした寺岡カルロスさん(94歳)は、流ちょうな日本語で訴えました。
寺岡カルロスさん(94歳)
寺岡カルロスさん
「戦後80年という年に、長らく“忘れられた日本人”と呼ばれてきた私たちの願いはただ一つ。日本人として認められ、父の故郷である日本の土を踏むことです」
“忘れられた日本人”。寺岡さんがそう表現した背景には、残留日本人が歩んできた苦難の人生がありました。

フィリピンの移民社会 ~繁栄そして衰退へ~

戦前、アメリカの統治下にあったフィリピンには、数多くの日本人が出稼ぎのため、移民として渡りました。
フィリピンに渡った日本人移民(1938年ごろ)
3万人ともいわれる日本人がフィリピン各地で暮らし、東南アジア最大の移民社会が築かれていたといいます。移民の大半は男性で、現地のフィリピン人女性と結婚し、家庭を持つ人も現れました。

寺岡カルロスさんの父、宗雄さんも山口県から移民として渡り、母アントニーナさんと結婚。寺岡さんら6人の子どもに恵まれ、建設業で生計をたてながら安定した生活を送っていたと言います。
寺岡さんの家族
寺岡さん
「父は棟りょうをたくさん雇っていて、35歳で自分の自動車を持って、運転もしていました」
しかし、宗雄さんは41歳の時に病に倒れ、帰らぬ人となりました。

さらに、寺岡さんの暮らしを一変させたのが、太平洋戦争の開戦でした。

1941年12月、旧日本軍がフィリピンに侵攻すると、寺岡さんたちは敵国の父親を持つ子どもとして、突如、敵意を向けられる対象となったのです。
日本軍機の攻撃で炎上するフィリピン・マニラ湾の米海軍施設(1942年3月撮影)
その後、国内各地で、アメリカ軍から支援を受けたフィリピン人による抗日ゲリラの活動が活発化していきます。
寺岡さん
「フィリピンの抗日ゲリラは日系2世を一番嫌っていました。一方でわれわれ日系人は、日本語に加え、現地の言葉も話すことができただけでなく、英語も話すことができたため、ほとんどが日本軍の通訳にされました」
寺岡さんの2人の兄
戦況が泥沼化し、犠牲者が日に日に増えていく中、日本の憲兵隊の通訳として働いていた寺岡さんの2人の兄は、旧日本軍とフィリピンの抗日ゲリラの双方からスパイと疑われ、射殺されました。

さらに、寺岡さんの母親は、寺岡さんと山中を逃げ惑うなか、アメリカ軍の空爆で、目の前で亡くなりました。
母と寺岡さん
寺岡さん
「破裂した破片が心臓を突き抜いたのでしょう。母親はうつ伏せになって倒れました。僕らはフィリピン、アメリカ、そして日本の3か国から敵と思われていたのです。本当に苦しい状況でした」
寺岡さんは、その後、アメリカ軍の捕虜となり、14歳で孤児となりました。

一方、父親が現地で築いた財産は、すべてフィリピン当局に没収されました。
捕虜名簿に残る少年時代の寺岡さん
そんな寺岡さんを反日感情が渦巻く戦後のフィリピンで待ち受けていたのは、激しい差別と迫害でした。

しかし、日本国籍を取得しようとしても、寺岡さんが日本人だと証明するものは一切残っていませんでした。
寺岡さん
「私は捨てられた日本人です。誰も相手にしてくれない日本人なのです」

父系血統主義だった日本とフィリピン

外務省の調査によると、寺岡さんのように、戦争によって家族を失い、フィリピンに取り残された子どもたちは、これまでに確認できただけでも3815人にのぼります。
残留日本人の方々
そもそも戦前、日本とフィリピン両国の法律では、「父系血統主義」がとられていました。つまり、父親が日本人であれば、子どもも自動的に日本国籍となったのです。

しかしほとんどの残留日本人は、父親との父子関係を証明することができませんでした。戦中・戦後の混乱で、日本国籍の取得に必要な出生や両親の婚姻を証明する書類を紛失したり、迫害や差別をおそれ、そうした公的書類や一緒に写った家族写真をみずから焼き捨てたりするなどした人も多かったといいます。

こうして、無国籍の状態のままフィリピンに取り残され、隠れて生きることを余儀なくされたのです。
寺岡さんに転機が訪れたのは、20歳になった頃。フィリピンでは成人した時に、フィリピン国籍を選ぶことができることを知ったのです。

無国籍状態で生きることに大きな不安を抱えていた寺岡さんは、生活のため、フィリピン国籍を取得することを決断しました。その後、独学で木材や農業の事業を興し、生活を再建していきました。

同胞の力になりたい ~日本政府へ訴え続けて

事業で成功を収めた寺岡さんが還暦を過ぎた頃、2つ目の転機が訪れます。1995年、日本外務省が残留日本人の実態調査をフィリピン全土で初めて行ったのです。

調査に協力した寺岡さんは、同胞の厳しい現実を目の当たりにすることになります。2000人余りの残留日本人が日本人の子どもだと名乗り出ましたが、そのほとんどが無国籍の状態のまま、厳しい生活を送っていました。寺岡さんは同胞たちの厳しい現状を変えたいと立ち上がります。
安倍首相に陳情する寺岡さん(2015年)
フィリピン日系コミュニティーの代表として支援団体と共に日本を訪れ、日本政府に国籍を取得するための支援を求める活動を始めたのです。しかし、抜本的な対策が示されないまま、月日が過ぎていきました。
寺岡さんの国会議員への陳情(2019年)
寺岡さん
「日本人であることを認めてください。父とそのつながりを認めてください。残留者たちが最後の1人まで置き去りにされることのないよう日本政府のみなさまの取り組みをせつにお願いいたします」

NPOにより続けられた国籍回復支援

日本政府から支援が得られない中で、20年余りにわたり、残留日本人の日本国籍取得を支援してきたのが、東京に本部を置くNPO「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」です。
NPO「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」
このNPOは、父親とのつながりを証明する両親の婚姻証明書や子どもの出生証明書など、父と子の名前が記された公的書類を捜し出すため、当時の両親を知る地域の長老へ聞き取りを行ったり、出生地の役場をくまなく訪ね歩いたりすることを続けてきました。

さらに、戦前に作成された外務省の「海外渡航記録」から父親の名前を見つけ出し、そこに記された住所から日本で親族を捜し当てたこともあります。そして親族から、祖先がかつてフィリピンに渡り家庭を持ったという情報を得るなど、地道な証拠集めに取り組んできました。

NPOが集めた証拠は、日本の家庭裁判所に提出され、新たな戸籍を得ることができました。こうした努力が実り、NPOの支援のもとで、これまでに323人が日本国籍を取得できたのです。

一方、およそ1800人が日本人と認められることなく、無国籍の状態のままこの世を去りました。

太平洋戦争の終結から80年を迎えて、身元を証明する手がかりを得ることはますます難しくなっています。それでもフィリピンには今もなお、49名の残留日本人が日本国籍の取得を求め続けています。

NPOの代表、猪俣典弘さんは、国籍取得のための調査は年々困難になっていると言います。
寺岡さんと話すNPO代表 猪俣典弘さん(左)
猪俣典弘代表
「今、残っている方々は証拠が乏しく、立証が難しいケースばかりです。高齢のため、もう5、6年も待てないです」

寺岡さん
「待てないですね。何とか良い解決方法はないでしょうか」

相次ぐ無念の死

NPOの猪俣代表はこの日、6年前に日本国籍を取得するための親族探しを依頼されていた男性の自宅を訪ねました。志し半ばで、亡くなったとの知らせを受けたからです。
フィリピン パナイ島の男性の自宅を訪問(去年11月)
ナカマ・ロドルフォさんは、父親の身元がみつからないまま、昨年、80歳で亡くなりました。亡くなる直前まで祖国・日本への思いを口にしていたと家族はいいます。
去年 80歳で亡くなったナカマ・ロドルフォさん
ナカマさんの息子
「父は日本の親族に会いたいと最後まで願いながら亡くなりました」
猪俣さん
「ナカマさんは、本当に情報がなく典型的な今も残されているケースでした。一番のハードルは、お父さんの名字しか分からないことで、それ以上は調査を進めることはできませんでした。日本国籍を取得するため、親族を捜す途中で亡くなってしまいました。ただただ手を合わせるしかありません」

動き出すか、日本政府

こうした中、今年3月、日本の国会で新たな動きがありました。石破総理大臣が答弁で、日本政府が初めて公費で、残留日本人を日本に招いて身元捜しを行う「一時帰国事業」の方針を打ち出したのです。
参院予算委での石破首相の答弁(3月)
石破首相
「戦後80年です。日本国民の負担において渡航の費用、あるいは親族捜し、そういうことをすることは、私は十分理由のあることだと考えています」
かつてない踏み込んだ方針に、残留日本人や支援を続けてきたNPOは、大きな期待をよせています。

戦後80年 一時帰国の実現へ最後の望み

NPOは、平均年齢が84歳になった残留日本人たちには一刻の猶予もないとして、身元捜しのための来日を実現させるために動き出しています。
フィリピン サンパブロに住む残留日本人のタケイさんを訪問(5月)
この日、猪俣さんは、20年にわたり日本国籍を求め続ける残留日本人のタケイさんの自宅を訪ねました。それぞれの願いを聞き取り、来日への意思や、長旅に耐えうる健康状態かどうかの確認を進めています。
調査を受けるタケイさん(左)
猪俣典弘代表「希望は何ですか?最後の願いは何ですか?」

タケイさん「日本に行けたらうれしいです。もう若くないので、できるだけ早く。そして、私の親戚に直接会いたいのです」
猪俣典弘代表
「今年は、80年という節目の年で、彼らには“90年”はありません。今年中にできる限りの人たち、そして国籍回復の可能性が高い人たちをまず日本に連れて行って、身元捜し、そして国籍回復の手続きに入れたらと思っています。

この問題だけは誰かが手を差し伸べなければいけない問題です。首相との面会がゴールではなく、身元を捜し、国籍を回復することがゴールなのです。

彼らにとっては、まだ戦争は終わっていません。戦争とは、それほど長く、高くつくものです。これは、加害者である日本とわれわれが向き合うことができる、数少ないチャンスでもあるのです」

取材後記

首相が一時帰国の支援を国会の場で表明し、マニラで残留日本人との面会を果たしてから2か月。今も国は一時帰国に向けて具体的な時期や支援内容を明確にしていません。

日本の戦争で、戦中戦後と厳しい暮らしを強いられ、無国籍の状態のまま人生の晩年を迎えているフィリピン残留日本人の方々に、私たち日本人がどう向き合うのか、戦後80年の節目に問われています。
(6月2日 国際報道2025で放送)
報道・映像センター カメラマン
桑原義人
釧路、沖縄、大阪、東京、横浜を経て現所属
学生時代にフィリピンで残留日本人問題に関わる
入局後はライフワークとして取材を続けている
マニラ支局長
酒井紀之
国際部、スポーツニュース部を経て現所属
隣国フィリピンの現在と過去をひもときニュースで伝える
報道局政経国際番組部
丸岡樹奈
現部署が初任地
ウクライナやガザなど
世界各地で起こる戦争や紛争の
当事者たちを取材
報道局政経国際番組部
酒井有華子
沖縄 東京 大阪を経て現職
太平洋戦争や現代の紛争
人権問題などに向き合い
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