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十五
月は朧に、江戸町は静まりかえる。
揺らぐ柳の下を、あたしは走り続ける。
襦袢の裾が乱れる、緋色の腰巻が纏わりつく。
まだらにどんよりとした空が、あたしを嘲笑う。
茶屋の片隅に、薄汚い小屋がぽつりと立つ。
浮かれた客達には決して気付かれぬ、夢の裏側。
あたしは扉に手をかけた。
蝋燭の灯りの下、悪い夢のような部屋が浮かび上がる。
土間に輪を作る目が、一斉にこちらに向けられる。
金襴の打掛を羽織る太夫に、言葉を無くす。
煤けた天井に、黒々とした梁が渡り。
梁に穿たれた鉤に、女たちの名残の錆がこびりつく。
吊るされた荒縄は固く張り、かおるの手首を戒める。
あたしの誂えた雪のような襦袢が、無残に浮き上がる。
「あんた ・・・・こんなとこに、何しに。」
言葉を忘れたような男達の一人が呟いた。
「太夫の来る処じゃ、ねえよ。」
うな垂れた後れ毛がびくりと震え、か細い首がゆっくりと上がる。
薄暗い灯りの中、蒼白い顔に瞳が一際大きく見開かれる。
猿轡の下で、必死で口が動く。
逃げるつもりなんてなかった。
太夫のいない部屋に帰りたくなかった。
泥を溶かしたような空が怖くて。
紛い物のこの町が寂しくて。
遠く霞む山が見えたような気がした。
だから歩いて行っただけだった。
帰る処なんて、ないのに。
言訳なんて通らない世界なんだと、
分かっているから大人しく吊るされた。
これもなにかの夢の続きなのだと、
食い込む縄の感触に思った。
どうして、この人が。
鮮やかな錦の打掛に、その姿はなお鮮やかに。
薄明かりの下、乱れ髪が壮絶なほど美しい。
わたしは息を飲み、思わず名を口走る。
名前は呪文のように、わたしを夢から引き戻す。
吊るされて仕置きを受ける、惨めな姿を。
苦痛に絞り上げられる、苦い泪を。
耐えきれずあげる、濁る声を。
そんな恥ずかしいわたしを。
どうか、見ないで。
睫がゆっくりと伏せられて、あたしから顔を背ける。
白く透ける頬に、羞恥の色が浮き上がる。
あたしは何をしているの。
あなたにそんな思いをさせるなんて、耐えられるわけが無い。
「なんとか、してもらえない。」
「無理だよ、いくらあんたの頼みだからって。」
「この子はもう直ぐ、お披露目なんだ。」
「だからって、こればっかりはどうしようもねえよ。
廓抜けは目こぼしは出来ねえんだ、示しがつかねえだろう。」
ああ、分かってるそんなこと。
だけど道理を引っ込めろって、言ってんだよ。
がんがんする頭で、あたしは考える。
「ちゃんとやらなきゃあ、こっちの首が飛んじまう。
残る程の傷はつけねえから、安心しな。」
いいかげんにしてくれというように、男の一人が竹を弄ぶ。
先割れのそれが、節くれだった手の中で禍禍しく息付く。
一つ大きく息を吸って、あたしはこいつらをぐるりと見る。
「じゃあ、あたしが代わる。」
部屋中の息が止まる。
「なっ・・・・なに言ってるんだ、あんた。」
「かをるはあたしのかむろだよ。」
「馬鹿言ってんじゃねえよ。」
「なにが、馬鹿なんだい。あたしが面倒みてるんだ。
あたしが仕置きを受けるのが、筋ってもんだろう。」
「だからって・・あんた太夫だし。売りもんに傷なんかつけるわけに・・・」
打掛を肩から滑り落とし、襦袢を投げ捨てる。
緋色の布一枚の白磁の肌に、皆言葉を無くす。
こいつらの欲望が、熱になって押し寄せる。
このどず黒い小屋で、売り物に手は出せない。
歪んでいく熱を、あたしは掴み取る。
口の端を上げて、口唇の裏を舐めて、
あんた達が拝んだこともないくらい、艶かしく笑ってやる。
「傷の一つや二つで値が下がるほど、安くないのよ、あたしは。」
咽喉仏がごくりと動く。
「さあ、かをるをおろして頂戴。」
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