十二
「こないだ、飛び出したんだって?」
遣手のばばあに嫌味をいわれる。
「まあ、まあ、太夫なんだからさ。」
横からお内儀が口をだす。
どっちにしても猿芝居。
腹の底にはおんなじ言葉。
稼ぐだけ稼げ、ただそれだけ。
この偽りの極楽で、金と泥を併せ呑む。
生き続ける意味を、すっかり忘れてしまうまで。
薄く張りつけた笑みで、全てを覆い尽くしてしまうまで。
染まる絶望の影が、あたしたちを一層美しくする。
忘れてしまった意味が、陽炎のようにたちはじめる。
いいえ、あたしは、知らなかっただけなのかもしれない。
そして戻ろうとするあたしの背に、言葉がかかる。
「かをるだけどね、そろそろ新造出し、考えといとくれ。」
薄暗い廊下で、あたしはゆっくりと振りかえる。
ばばあどもが澄ました顔で、啜っていた茶碗を置く。
新造のお披露目は、姉女郎が受け持つきまり。
「いい旦那がつくだろうよ。」
「かをるは、何て・・?」
「どうもこうも無いだろう。そのために買ったんだからさ。」
階段がこんなにも遠い。
脚がこんなにも遠い。
陽炎が緋に喰われる。
頭に鳴り響く、轟音。
詰まりそうな、胸。
届かない、人々の叫び声。
あたしは声すら出せず。
医者の持ってきたのは、長崎から取り寄せたとかいう薬。
ずっしりと重い小判の包みを放り投げる。
金で買えるものならば、こんなもの惜しくは無い。
流れる髪をそっと手で支える。
小首を傾げ、仄暗い明かりをうけて後れ毛が艶やかだ。
「かをる、そこの抽斗。」
柔らかい行灯の明かりに、白い指が浮き上がる。
指された先の抽斗から、小さな包みを持ってくる。
「新しい薬ですって。 持っておいき。」
包みに書かれた文字は、わたしの読めない異国のもの。
「だけど・・・ 頂けません。」
細い眉がぴくりと弧を描く。
「どうして?」
「だって、いつも・・・」
「かむろの世話をするのも、あたしたちの仕事なんだから。」
「こんな、高価なもの。」
わたしたちは真っ直ぐに見詰めあう。
太夫はふっくらとした唇を噛み締めて、行灯に目を向ける。
ああ、どう言えばよいのだろう。
太夫のあたしは、そんな言葉を知らなくて。
桜色の襦袢姿で正座するかをるは、儚くて美しく。
ただその姿をとどめていたいだけなのに。
行灯の火が揺れる。
渦巻く煙をさまようように、
あたしは、言葉を忘れてしまう。
「じゃあ、稼いで返せばいいわ。」
かをるの影が、かすかに揺らいだような気がした。
その揺らぎに同調するように、あたしの心も揺れる。
焦げた煙は、あたしを喰いたがる。
「座敷に上がって。」
おぞましい言葉が流れ出す。
苦しくて息が詰まる、目が霞む。
「一人前の女郎になって。」
言葉があたしを離れていく。
梁の焼ける音がする、爆ぜる火の粉が目を潰す。
「いい旦那もすぐにつくわ。」
吐き出す言葉に虫唾が走る。
崩れゆく町の叫び声、耳を聾する半鐘の音。
「一晩で稼げるはずよ、このくらい。」
震えそうになりながら、それでもあたしは垂れ流す。
どれほどに耐えられないことなのか、自分に思い知らせるため。
低く呟く太夫の声。
わたしはどうして、こんなに苦しいのだろう。
神棚で手を合わせた時から、わかっていたことなのに。
帰る処など、もうないはずなのに。
辛いのでもなく悲しいのでもない。
ただ、太夫の言葉のひとつひとつがわたしの胸を締めつけてゆく。
それは病よりも密やかに、深く爪を立てる。
「だから、持っておいき。」
放り投げるように渡された包みを抱え、顔を上げらぬまま、
わたしは足早に立ち上がる。
閉じられる襖の音を聞きながら、空っぽになったようにあたしは座ったまま。
固まってしまった顔の上を、伝う涙が冷たくて。
拭うことすらできないままに、あたしは涙を流し続けた。
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