九
「かをる、ちょっと。」
気紛れがふと目を覚ます。
奥まった仕度部屋であたしはかをるに声をかける。
長持の金具でも磨いていたのか、
布巾を手にしたかをるがかけるようにやってくる。
鏡台の前に彼女を座らせる。
「お化粧、してあげる。」
「でも、まだ、仕事が・・」
「いいから。」
わたしはお化粧がとても苦手。
太夫が見かねたのかしら。
太夫の鏡台には、綺麗なものが一杯ならんでいて、
それは強烈な大人のおんなの香りを放ち。
長い指が顎にかけられる。
どきりとするほどにしげしげと顔を眺められて、
ひやりと白粉の刷毛が触れる。
ぬけるような白い肌は、色里で益々その白さを増し、
唇の赤さを際立たせる。
もっと赤く、なまめかしいほどに赤い唇が見たかった。
あでやかに花開く、身体の芯がぞくりとするような唇を。
濡れたような紅をたっぷりと含んだ筆を、ゆっくりと走らせる。
目頭から細く筆を引く。
目尻に少し朱を差して、睫が震えているのに気が付く。
上気したような、それでいてどこかきりりと気高いその面差しは、
松の位に登るのもそう遠いことでないと、あたしに確信させる。
太夫の操る筆はわたしの皮膚の裏を擽るようで、
震えてしまうのに気がつかれませんように。
只それだけを念じながら、わたしは目を瞑る。
「いいわ、御覧なさい」
鏡に映るわたしには、太夫と同じ化粧が施され。
でも、比べ物にすらなりはしない。
匂い立つようなおとなの太夫。
戸惑ったようなわたしは、どんなふうに見えているの。
「とても、綺麗だわ。」
肩にそっと手をかけて、寄り添うように声がした。
ただその言葉が嬉しくて、わたしは鏡の中の太夫に微笑む。
鏡の向う、ニ重映しのあたしたち。
厭な汗は水が温んでも、まだ引かない。
時折夜中に苦しくなることがある。
胸が重いのは、心のせいばかりではないかもしれない。
続き部屋の音で目が覚める。
丑三つの静けさの中、それは隠すように密やかに。
「かをる。」
返事はなく、一層抑えられる咳の音だけがくぐもって伝わる。
「かをる、どうかしたの?」
襖がさらりと開けられる。
蝋燭を手にした太夫をわたしはぼんやりと見上げるばかり。
咳が止まらない、胸が痛い。
覗きこまれる瞳が涙で滲む。
いつもよりも蝋たけたような肌をして、
睫に瞳を溜めたかをるがあたしを見上げる。
額の汗、震える胸元。
「かをる、苦しいの?」
低くて甘くて優しい声。
苦しくて溺れそうで切なくて、
わたしは思わず、手を伸ばした。
伸ばした手は、驚くほどの力を持ってしがみつかれた。
熱くなった身体を思わず抱き締める。
ただひたすらにしがみついてくるこの子がいとおしい。
余程に苦しいのだろう、固く瞳をつぶり眉間を強張らせる。
なにもできずに、ただひたすらに抱き締める。
「我慢しなくていいから。」
波のように押し寄せる痛みの中で、わたしは爪を立てるほどにしがみつく。
薄い布団の下で、じわりと太夫の体温が1わたしを包み込む。
抱き締めてくれる身体は、なんてよい匂いがするのだろう。
薄い襦袢を通して柔らかな胸の鼓動に浸される。
「 かをる ・・・・・ 」
寄せて返すように、名前が繰り返される。
赤子をあやすような腕に、心地よく揺られる。
潮が引くように消えてゆく痛みの名残。
現と朧の溶けあう底で、それは柔らかく胸に絡みつき、
わたしは子供のように、太夫の胸を濡らし続けた。
苦しい夜は、いつしか甘やかで懐かしい夢に変わる。
その境目すら定かではないままに、わたしは眠りに沈んでゆく。
わからぬままに、ひたすらに、
あたしはこの子を抱き締める。
これほどまでに魅かれていたことに、やっと気が付いた。
空の白む前に、あたしはそっと布団を抜ける。
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