TOP
四
漆の盆に房楊枝と手塩皿、
うがい茶碗の水に少しだけ香を垂らす。
そろそろ巳の刻、太夫が目を覚ます。
気難しいとか、情が強いとか、色々とかまびすしく噂される太夫。
右も左も分からないわたしは、言われた通りに動き回るだけだけど。
はじめて出会った薄暗い廊下。
一人きらびやかな光を纏っているようで。
絵草紙のどんなお姫様よりも美しいと思った。
ぼうっとしたまま、眠りについて、
目まぐるしいまま、お手伝いする
あらかたの作法を教えられて、太夫付きのかむろはわたし一人にされた。
人手不足なだけではないらしい。
太夫は優しくて、だけどそっけない。
ほかの姐さん達みたいに癇癪はおこさないけど、軽口も叩かない。
お座敷がかからない日には、なにかしらのお稽古に通う。
わたしは後ろから、風呂敷を抱えてどこへでもお供する。
歌舞音曲だけではなくて、お茶だったりお花だったり。
ひたすらに見ているだけなのだけれど、
太夫の周りでは、空気がぴんと張り詰める。
俳諧や漢籍の講義は、後ろで控えて聞かせてもらう。
お父様とお兄様がご本を読む姿を思い出して。
だけど、もう、戻れない。
「太夫」
襖の向うから、かをるの声がする。
半身を起こし、彼女を迎える。
いつも俯き加減、でも飲みこみはとても早い。
楊枝を手に取る頃には、ぱたぱたと階段を降りてゆく。
人形のようなすべすべの肌、ほっそりとしなやかな身体。
ぱっちりと愛らしい瞳、桜色の唇。
遊里の水で洗われて、着飾ったならばさぞや美しくなるだろう。
この硬さすら、初々しさとしての武器になる。
お内儀たちが色めき立つのもよく分かる。
これだけのものを持っている娘だというのに、
この子はどうもわからない。
ぼんやりしているかと思えば、てきぱき動き出す。
戸惑ったような顔をして、痒い処に手が届くような世話をする。
ぼうっとしていて勘がよくて、
あたしは珍しく興味を引かれ始める。
座敷のかからない日には、あれこれと稽古に通う。
追いたてられるように、何年も過ぎていった
いつもあの火が、あたしを追ってくる。
いつもあの火から、あたしは逃げている。
風呂敷を抱えながら、かをるは付いてくる。
座敷の片隅で、しゃちこばったように固まって、
あの瞳で追い続ける。
扇子を返すあたしが、瞳に映る。
太夫の教養の為ならば、傾城屋は金に糸目をつけない。
俳諧師や学者でも呼んでくる。
生欠伸をかみ殺していた今までのかむろたちと違い、
かをるは嬉しそうに耳をそばだてている。
そういえば、どこかの下級武士の家の出って聞いたっけ。
昔を思い出しているのかもしれない。
けれど、もう、戻れない。
← Back Next →