41.
日々が過ぎてゆく。
それはじりじりとした、なにかを焼切ろうとでもいうような焦燥を潜めながら。
タニの眼差しは、あれ以来変わることはなく。
俺の眼差しも、ぶれる事はなく。
絡みかけた視線は、緩やかに解かれるようにお互いをすり抜ける。
放たれる言葉は、注意深くその流れを逸らし。
まるで、そこにいない誰かに問いかけるように、ただ宙に浮く。
世界は注意深く既視感を装い、間断なく繰り返される。
俺たちは足を竦ませ、彼方の岸に気づかぬふりでもしているのだろうか。
アリアドネの糸が手繰られる。
夢は絡みあい、俺は引きずりこまれる。
もう、抗おうという気持ちすら摩滅してしまい。
痛みが、突き上げる。
吐き気が、込み上がる。
口が、開く。
侮蔑の瞳が、俺を覆う。
歯を食い縛り、気が遠くなる。
涙が溢れ、声が込み上がる。
そして、空になる。
淋しげな瞳が掠める。
りかの腕で眠る。
「タニ、しばらく厨房は休みだ。」
ある朝、ワタルさんに告げられる。
「轟さんの、お達しだ。
ぶんの書類仕事を手伝ってやってくれってよ。」
「え・・・・でも、俺何にもわかんないっすよ。」
「さあ、まあそれでいいって事だろうから、早いとこ行ってくれ。」
「はい。」
焦りながらエプロンを外す。
厨房の窓ガラスを、急いで透かして見る。
どこの小僧だ、って感じの自分がぼんやり映る。
ぼやけた輪郭に、目を凝らす。
ぶんさんは身だしなみに五月蝿いという話を、聞くともなく聞いていたのを思い出す。
立ってる髪の毛を落ち着かせて。
襟元を調えて。
だからって、何が変わるというわけでもないのだけれど。
俺はやっぱり、ただの小僧にすぎないのだけれど。
タイをチェックする。
朝の日差しに、疲れが顔に浮き出している。
認めたくもない。
俺は鏡から離れた。
「出かけるのか?」
「ああ。」
ワタルが寝呆けたような顔で入ってくる。
「早いな。」
「別に、普通だ。」
カフスの角度を直す。
「変なとこ、お前几帳面だよな。」
「お前に言われても、ありがたくねぇな。」
ジャケットを取り上げ、袖を通す。
「しっかし、ひっでえ顔だな。」
「大きなお世話だ。」
「酒、少し控えたらどうだ?」
「お前にだけは言われたかぁねえ。」
こいつの言うことは、近頃なぜか気に障る。
かかずらわっている暇はないが。
ドアノブに手をかける。
「じゃあな。」
「あ、そういえば。」
やけにわざとらしい大声が響く。
耳に障る。
「なんだ?」
「あのな、タニ。
仕事変えろってよ、轟さんから。」
「そうか。」
俺は振り向きもせず、答える。
「ぶんの下で、それなりに組織の流れとか見せるつもりらしいぜ。」
「俺には、関係ない。」
冷えた日差しが、まばらに道に散る。
ワタルに言われたまま、ぶんさんの私室に向かう。
ドアの前で、シャツの皺を整える。
一つ深呼吸して、ノックする。
「あ、悪かったね。」
ドアに凭れかかるのは、初めて見る顔だ。
グレイのパンツに白いシャツの彼は、轟の横からは想像出来ない。
面食らいながら、部屋に入る。
「ちょっと立込んででね、単純作業まで、手、回らないんだ.。」
ロイドの眼鏡を摺り上げて、寝不足気味に笑いかける。
部屋は何処かのオフィスの様になっている。
広いデスクには、紙が山と積もる。
「俺、何すれば。」
ファックスが吐き出され、ぶんさんが飛んでいく。
「そこの紙の山、分けて、整理して、ファイルするだけ。」
見回している内に、電話が鳴る。
電話を肩に挟みメモを取って、舌打ちする。
こちらをペンで指しながら、次々指示を出す。
画面を眺め、眉間に皺を寄せる。
数字の並ぶ紙を、目が回る様に分け続けた。
プリンターは絶え間無く、紙を吐き出す。
流れるように、キーボードに指を走らせる。
呆気に取られ眺める。
顔が会い、片目を瞑って笑う。
口を尖らせ、ペンを振る。
慌てて数字に戻る。
ぶんさんの顔が、また厳しいビジネスの顔になる。
目が霞んできた頃、なんとか山が消える。
ぶんさんが大きく息をつき、椅子で伸びる。
眼鏡を外し、こちらを向き微笑む。
「もう、限界、お終いにしよ。」
限界なんかでない事は、顔を見れば分かる。
「遅いけど、アフタヌーン・ティー。」
デスクの電話に手を伸ばす。
チッペンデールのテーブルに三段重ねの優雅な皿が並ぶ。
さっきまでキーボードを叩いていた指が、滑らかに茶を淹れる。
ラプサンスーチョンの香りが上がる。
「こういうバタバタしたのって、好みじゃないんだけどね。」
ゆったりとソファに沈み、カップに口をつける。
酷使した頭に熱い液体がじわりと染みる。
薄いサンドイッチを頬張って、思いのほか腹が減っていることに気づかされる。
おずおずとスコーンに手を伸ばした。
いきなり、話しかけられる。
「もう、慣れた?」
さっきまでとは打って変わり、穏やかな顔つきで。
何と言っていいのか、この人には分からない。
「お父さん、少し、存じ上げてた。」
分からないので、顔を伏せた。
「どうしようもない事って、あるからさ。」
分かるようで分からず、俺は曖昧に頷いてみる。
「轟さんにも、りかさんにも、
多分、僕にも・・・・・かな。」
柔らかい微笑みが戻り、ケーキに手を伸ばす。
「疲れると欲しくなるんだよね、甘いもの。」
言葉が途切れ、黙々と二人口を動かす。
口の中でクロテッドクリームが、甘く溶ける。
気詰まりな気持ちが少し、溶けた。
又、いきなり口を開かれる。
「疲れさせちゃったね、持つ?」
意味が分からず、顔を見る。
「夜。」
冗談か皮肉か、分からない声音で言う。
そういえば、ここはりかの部屋に近かった。
りかの顔が浮かぶ。
耳まで赤くなりながら、両手でカップを押さえる。
「う、るさくして、すみません。」
言ってしまって、後悔する。
不思議そうにぶんさんが、俺の顔を見つめる。
少し迷っったように、そして静かにカップを置く。
「そんな事、言って無いよ。」
舌を噛みたい思いで繰り返すしかない、俺。
「あ、すみません。」
呆れた様に、ぶんさんはソファに伸びる。
「何、言ってんの。」
右手を額にかけ、こちらに目を向ける。
分からない、繰り返す。
「すみません。」
うんざりしたように、部屋を眺める。
「だからさ、掃除しなきゃなんないんじゃない。」
いよいよ、分からない。
「捨てるしかないじゃん、使い道無かったら。」
ぶんさんの口調に苛立ちが混ざる。
そして、不意に微笑みらしい口元に戻る。
「整理は、それからだよ。」
説明しているつもりらしいことは分かった。
思考がショートカット過ぎるけど。
ぼんやり見ているうちに、メンソールを吸い出した。
デスクの方を、ちらちら眺める。
もう頭は仕事に戻ったらしい。
「じゃ、もう仕事無ければ、これで。」
あとは、邪魔になるだけだ。
ドアで声をかけられる。
「僕は、気持ちいいだけだけど。」
いたずらっぽく笑う。
痺れた頭の奥が、ほんの少し緩む。
何故かはまだ、分からない。
ただ、靄が少し薄まるような、そんな心地よい緩み。
無意識に襟元を緩め、首をまわしてみる。
日は既に、とっぷりと暮れている。
俺は部屋へと、廊下を急いだ。
| SEO |