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  40.

 

  





ぴんと張った朝の気配で目が覚める。
ベッドの傍らに、まだぬくもりを含んだ窪みが残る。
シャワーの音が聞こえてくる。
俺はベッドの中で、思いきり身体を伸ばし大きく息を吐く。




ベッドから、弾みをつけて飛び出した。
鏡に映るのは、ぼさぼさ頭にパジャマ。
今日から復帰だと思うと、なんとなく元気が出る感じがする。
テーブルのコーヒーの香りが、鼻に心地良い。
気持ちが柔らかくほどけてゆく。
昨夜はどうかしてたのかなとか、今は考えない。

水音が止む。
滴を拭いながら、ガウンのりかがバスルームから出てきた。
「おはよう。」
できるだけ明るく、言ってみる。
あいつはちょっと驚いたように、そして眩しそうに目を眇める。
「早いな。」
「うん、今日から復帰だから。」
なんでもない会話。
「風呂、借りるね。」
なのに明るさが、どこかとってつけたように思えてくる。
俺はバスルームにばたばたと飛びこんだ。






あがった時には、もうあいつは出かけていた。
飲みかけのコーヒーが、底に冷めてこびりついている。









きちんと糊のきいたシャツを着て、はきはきした返事を返し。
笑顔は絶やさずに、きびきび動き回る。
今日の俺は下働きとしちゃ、いいセンいってるはず。
最初の頃と比べて、肩も凝らなくなったし人見知りもなくなった。
昼休みのあと、大量の皿なんか洗いながら軽口だってたたけるように。
で、どういう流れだったのかいつのまに俺の謹慎に話は流れていた。
「タニさあ、りかさんにぶっとばされたんだって?」
「あ、まあね。」
「そりゃ、きついよな。」
「あの人、あんなに細っこいのに腕っ節立つからなあ。」
「うん、かなりきた。」
で、しばらく笑って。
そしたらぽつんとねったんが言った。
「でも、却ってよかったよね。」
「え?そういうもん?」
若手の組員たちが尋ね返す。
「そりゃあさあ。
 だって轟さんだったらシャレにならないだろ。」
「まあ、そりゃあそうだ。」
「最後通牒になっちまうもんな。」
「じゃ、殴ってくれてありがと、りかさん、って感じ?」
「ま、そういうことだろ、結果的には。」
俺は口を挟めないまま、勝手に納得して話は終わってた。


確かに捕虜のくせに、逃げたっていわれても言い訳出来なかったはず。
だから、殴られんのだって当たり前だと思ってた。
いや、今も思ってる。
だけど、少し意味合いが違ってくるような気がする。
なんで、りかは俺を殴ったんだろう。



「たにくん、頭飛んでる。」
「あ、ごめん。」
疑問は頭をかすめたまま、俺は皿洗いに戻った。




















こんな日に限って時間は遅く過ぎて行く。
屋敷にざわめく声が、神経に触る。
胸の底の違和感は、じわりと紙魚が広がるようにこびりつき離れない。
「りかさん、お車の用意が出来ました。」
ゆうひの声に頭を振って仕事に戻る。



日もすっかり落ちた頃に、屋敷へ戻る。
皆はもう部屋に戻ったようで、
人気のない玄関ホールでコートを脱ぐ。
不意にたにの顔が浮かぶ。
頑ななまでに俺を見据えた瞳。
薄く開かれた唇。
あの時自分に湧きあがった羞恥までも。
ホールの床が揺らぐような気がした。
目を閉じて、大きく息を一つ吐く。
心臓の音が聞こえるような気がした。

部屋とは反対の方へ、足を向ける。






応接室の深いソファに腰を下ろす。
この時間ならば来客もないだろう。
机に足を投げ出して、背もたれに長くよりかかる。
全く、俺は何をしているんだ。
眉間に皺を寄せながら、自分をあざ笑う。
不味い煙草に火をつける。


「なんだ、お前かよ。」

不意に扉から無遠慮な声が飛ぶ。
「電気もつけないで、なにやってんだ。」
いつもの調子でワタルがずかずか入ってくる。
「放っとけよ、疲れてんだよ。」
「疲れてんなら、部屋へ帰れば・・」
ワタルの声が途切れる。
「お前・・・・ひでえツラしてんな。」
「お前よか、マシだ。」
「言ってろ、バカ。」
憎まれ口を叩きながら、戸棚からボトルとグラスを持ってくる。
「そんな気分じゃねえよ。」
「轟さん、いい酒置いてっからな。」
こっちの話など、聞きもせずにグラスに注ぐ。
無言でグラスを受け取り、喉に流し込む。
ワタルも無言のままで、差し向かいで飲み続ける。


「やっべえ・・・・」
「何が?」
ワタルが殆ど空になったボトルを持ち上げる。
「ほとんど二人で飲んじまった。」
「お前一人だろ。
 俺は舐めてたようなもんだ。」
「きったねえぞ、りか。」
そう言って、言葉を切って目を合わせる。
不意にワタルが噴出して、俺もつられるように噴出して。
「馬鹿野郎、笑ってるばあいじゃないだろうが。」
「お前が笑ってるからだろ。」
そんなたわいも無い事をいいながら、ひたすら笑い続けた。


「どうせ小言言われるんなら、もっと飲んじまおう。」
ワタルがソファから勢い良く立ちあがる。
寄木の戸棚の奥から、又ボトルを引っ張り出す。
「バランタインでいいか?」
「何年?」
「17年」
「勝手にしろ。」



何杯かグラスを重ね、やっと胸の違和感が痺れてくる。
頭の奥は、ゆるやかに波が打ち寄せているような。
静かに目を瞑り、グラスを額に当てる。
まるで何かに、祈りでもしているように。


「まったく、夜の夜中に男二人で酒飲んでるってのも無粋だよなあ。」
ワタルがふんぞり返って脚を投げ出す。
俺は肩を竦める。
「別に、頼んじゃいない。
 お前が勝手にいるだけだろう。」
「はいはいはいっと。
 全くカンジわりいなあ、お前。」
こちらの声など聞こえなかったように、
立ちあがりきょろきょろ辺りを見まわす。
「どうした?」
「いや、なんかつまみでもないかと思ってさ。」
「食いモンは厨房だろ。」
「ちぇっ、気がきかねえな。」
悔しそうに、また向かいに腰を下ろす。
「夜中まで食い意地はってんじゃねえよ。」
今度は、横に脱ぎ捨てた背広をごそごそ探り出す。
「うるせえな 
 ・・・・・・と、これ。」
ポケットの奥から、小さな銀の粒をつかみ出す。
「なんだよ、いったい。」
「チョコレート。」
見てわからないのかと言いいたげな顔になる。
「だから、それがどうしたってんだよ。」
「つまみの代わりだ、ほら。」
銀の粒が弧を描いてこちらに落ちる。
「そんな甘いもん、つまみになるかよ。」
テーブルに戻そうとする俺に、ワタルが得意げな顔を向ける。
「ばーか、これはな、酒にも合うようにわざわざ・・・」
「わざわざ?」
そこで、やけに嬉しそうに笑う。
「コムがな、くれたんだ。」
「エサかよ。」
「ったく、これだからデリカシーの無い奴はよう。」
「悪かったな。」
「こないだ、ほら、
 バレンタインデーってやつ。」
「で?」
別に興味はないが、喋りたそうだから聞いてやる。
「そりゃまあ、あいつは男だけどさ。」
「言われなくても分かってる。」
「気持ちってことで、って。」
全く、こんな気分の時にのろけてんのかよ。
「で、そんな大事なもんを背広に入れっぱなしか。」
するとワタルは口を尖らせる。
「違うだろ。
 大切にしまっておいたって言うんだぜ。」
「はいはい。」
こいつに付き合って、何故こんなに喋っているのか馬鹿馬鹿しくなってくる。
「それをわけてやろうってんだから、感謝して食え。」



こちらが食うのを睨むように見るワタルの前で、ぼそぼそと銀紙を剥く。
繊細な模様の施されたブラックチョコレートを口に入れる。
俺が食うのを見て、安心したように奴も頬張り出す。
「な、思ったよりいけるだろ。」
「ま、お前には最高のつまみだよな。」
又、グラスに口をつける。
琥珀に煙った液体が、ほろ苦いチョコレートにとろりと絡みつく。
「ああ、最高だ。」
頬張ったまま、ワタルは実に嬉しそうに笑う。
「形無しだな。」
「なにが?」
「大幹部が、骨抜きってツラしてるぜ。」
思いもかけないことをいわれたように、きょとんとした顔になる。
「別に・・・・・・何かまずいか?」
真面目に聞き返されて、俺は言葉に詰る。
「お前がいいんなら、いいんじゃねえか。」
「別にいいぜ。」
俺の棘のある言葉にも関わらず、
ワタルはやけに穏やかな表情になりソファに深く持たれかかる。


厚いカーテンの隙間から、薄い月翳が床に淡く筋を描く。
ほろ苦い甘さに、ささくれだっていた神経が静まってゆくような気がした。
ゆるやかに打ち寄せる波は、いつしか暖かく柔らかく。
強張っていた身体がほぐれるような、穏やかな空気が支配する。




「なんだかよ。」
ぼそりとワタルが、口を開く。
「ん?」
俺は目を上げる。
「酔ってるんだろうな、俺。」
「だろうな。」
「つまんねえこと、喋っていいか?」
「だめだって言っても、喋るだろうが。」
「酔ってる割りに、憎まれ口は叩くよな、お前。」
言葉とは裏腹に、酒が回ったせいか穏やかな口調でワタルは続ける。
「なんかさ、たまーに思うことあるんだよな。」
「何を。」
「俺と、コムってさ・・・・」
顔を上げて、しばらく考えるようにして、
「普通だったら、どうだったんだろうってさ。」
俺は口を挟まず済むように、グラスを口に運び続ける。
「いや、普通ってか・・・・でも、普通だな、やっぱ。」
考えているのか酔っているのか、どちらかの逡巡を持って言葉を選ぶように。
「こんなんじゃなくてよ。
 なんつーか、例えば俺なんてガキの頃さっさとグレちまって、
 こっちに足つっこんじまって。
 コムとかも、色々あってやっぱりこの組に絡んじまってさ・・・・」
ワタルは柄にも無く、静かに語り続ける。
「それが、どうだってんじゃないんだけどよ。
 でもな、たまーにあいつの顔とか見てるとふっと思っちまうんだよな。」
「何を?」
「例えば、俺とかがあの頃グレないで、コムもどっかで道が違ってたら、
 もしかしたらあの大学生なんてやつになったりしてたかも、なんだよな。」
珍しく俺は何を返していいかわからず、ただ黙って聞いている。
「それでも、なんかの拍子にもしかしたらどっかで逢うかもしれねえだろ。」
問いかけるようにこちらを向く。
「そしたら、やっぱ、俺はあいつを欲しいと思うのかな。
 ・・・・・思うよな。」
そして、又、間を置いて、
「でもって、あいつは、やっぱりおんなじように思うのかな。」



「わかんねぇよ、そんなこと。」



呟くように、俺は返す。
「お前、案外冷たいな。」
「でも、とか、もしも、とか考えても仕方ない事は考えない。」
酔っているのかもしれない、俺は呟き続ける。
「今信じることなら。
 ・・・・でも、だろうが、もしも、だろうが信じるしかねえだろう。」
急に口を開く俺を、今度はワタルがグラスを口に運び見つめている。
「お前、怖いとか思ったことないのかよ。」
「さあな。」
「自分で勝手にしょいこんで、勝手に潰れるのはお前の勝手だけどな。」
「だけど?」
「わざわざ潰すほど、しょいこむ必要・・・・あるのか?」


言葉が途切れる。
じわじわと神経が覚醒してくる気がした。



不意にワタルが立ちあがる。
「じゃ、そろそろ俺行くわ。」
「ああ。」



扉に手をかけて、振り向く。
「そういや、」
俺はソファで背を向けたまま。
「轟さん・・・そろそろタニに別の仕事もさせてみたいらしいぜ。」
肩が微かに揺れる。
「まあ、大和組の後継者としての教育ってやつに入るってことかな。」


そして、扉は閉められた。








仄暗い部屋は、全ての音を吸う。
不自然なまでの静かさが、部屋を支配する。

俺はまだ明けぬ空を網膜の底に感じながら、
グラスを又傾ける。





















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