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  36.

   










小さく砂利を踏む音が続く。
風に混じり、微かに波の音。
薄い月陰は真珠の尾をひいて、柔らかに夜風に紛れてゆく。




「あ・・・っ ・・」




ぼんやりしてたら、石に足を取られた。
時間の流れに乗りあがれないままに、ゆっくりと首を上げる。
降ろしたままの手に砂利が食い込んでる。
なんとなくそのまんま、
一日の力がまとめて抜けてしまったような気分になった。
なにかを満たしたくて来たはずなのに、
心からはさらさらとなにかがこぼれていくようで。
からになってしまえば、とふと思う。
でも、そのとき、俺はどうなっちゃうんだろう。


「ほら。」
思いもかけず、手が伸びる。
細い指先、形のいいその手向こうの顔は陰になって見えない。
俺はゆっくりと、それは思いがけないほど素直に手を差し伸べる。

ふと重なり合う掌は、ひんやりと滑らかで。
だけどそれがなぜか暖かく。
俺は呆けたような顔をしていたに違いない。
吸い寄せられるように、見つめてしまう深い瞳の底。
「ほらよ。」

「あ・・・。」
俺なんか軽く、引っ張りあげられる。
心の中に何かが通り過ぎようとする前に、
手はするりと離された。
「気をつけて、歩けよ。」
「ん。」


言葉はそれで終わる。
コートをはたいて、また歩き出す。

滑らかにそよぐ風は、微かに春の匂いを纏い。
足の下から竦むようだった感触が、おだやかに解けてゆく。
それは、生まれたばかりの子がやっと歩みを覚えたように。
つたなく。






ハンドルを握る手に、さっきの感触が蘇る。
なぜか無意識に出してしまった手に。
そんな微かなすれ違いに過ぎないのに。
波打たせたのは、こいつの瞳なのかもしれない。
まっすぐに、心の底に直に触れそうな強い光。

それは、俺が持ち得ないもの。 

触れたものは、瞳、掌、唇。
そして、身体。
だが、俺は本当に彼に触れたことはあるのか。
その奥に潜むこいつの姿は、まだ輪郭すらおぼろげで。
触れ合いすら、皮肉な悪戯としか思えない俺達なのに、
隠れているものを、どうして引きずり出したいのか。
彼の纏う肉体、それは単なる有機的な繋がりでしかないのだけれど、
時折滲み出る、不可思議なもの。
光でもなく、影でもなく、それはまだ香りというにも仄か過ぎて。
なのに、なぜか、俺は鼻について仕方ない。

自嘲と共に、飲み下す問いは苦く喉に残る。

触れ合うその時、
お互いの、ちいさな疵が触れ合う。
ほんの少しの切り口が重なり合う、
他人には決して見えはしない。
俺達すら気がついていないほどの、微かな白い疵。
そんなものだけで、わかりあえることなどありはしない。





白々とした灯が揺らぐような高速道路。  
その揺らぎを切り裂くように、都心へ向かいカーブを切る。








夜更けの館はもうすっかり寝静まってしまい、
俺は奥の部屋に連れて行かれる。
重い樫の扉の、轟さんの執務室。
まだ明かりがついている。



「遅くなりまして。」
りかが頭を下げる。
「ん。」
机に脚を乗せたまま、変わらない表情で彼は頷く。
「どこ行ってた?」
「墓に。」
「そうか・・・」
轟は思案気な表情を浮かべる。
俺を扱いかねているような顔で、眺めてる。
「困ったもんだな。」





いきなりりかがくるりとこちらを向く。
風を切るような音がして、頬に平手が飛んだことに気づく。
俺は吹っ飛ぶように転がって。
「いや、りか・・・まあ、そこまでやらんでも。」
「いえ、他に示しがつきませんから。」
殴られた頬の痛みは、なぜか鈍く。
唇が切れているらしいのだけがかろうじて分かった。

俺はただ転がっている。
りかの靴先が俺を仰向かせ、襟首を掴みあげられる。
近づく顔は、凄惨なまでに冷たくて、
唇を噛んで見返すのが精一杯。
「てめえが勝手すれば、どれだけ迷惑がかかるかわかってんのか。
轟さんだけじゃねえ、おまえんとこだって飛び火するんだぞ。」




じっと見つめるのは、深い虹彩。
その中に、あるのは冷たさと、怒りと、
そして・・・・・
何かが見えそうで、見えなくて。
覚えるというよりも、なぜかもどかしさが先に立つ。
俺はただ頷くばかりだった。



「まあ、帰ってきたことだし、そう事を荒立てる必要もないだろう。」
指を組んだまま、轟さんは苦笑いする。
この人はりかの瞳にあるものを読み取っているのかもしれない。
「暫く、謹慎ってことでいいだろう。」










廊下を抜けて、部屋への階段を上る。
俺はやっぱり、こいつの後ろを歩いてて。
こいつは一度も振り向かず、言葉すらもかけない。
口の端が少しひりひりする。
窓から差し込む、月明かりがそこここに。
光と影の波をかきわけてくみたいだなあ、とか思って後姿を見てる。



俺はまだ、歩いてすらいないんだ、おそらく。
思いは止め処なく、ただ浮遊しているようで。
頼りたいわけじゃない、受けとめて欲しい訳でもない。
俺はただ、自分の足で立ち上がりたいだけだ。
  
つまるところ、彼は俺とかかわらざるを得ない人間ってだけで、
それ以上でもそれ以下でもないはずなのに。
なにかが俺の胸でざわめいている。
  
人に運命と言うものがあるとするならば。
既に神の気紛れで、糸が紡がれているというのならば、
このざわめきは予兆なのだろうか。
そんなことすら、今の俺には浮かびはしなかった。


それでも、それはたしかな動物の本能とでも言うべき部分で、
重なり合う傷口を求めて、俺の中で渦巻いていた。














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