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  33.

   










頭を切り取るように、時間をやり過ごす。
慌しさに紛れ、何かから顔を背け。
時折ざらつきが、胸の奥から湧き上がり、
それは、うたかたのように消える。







「あ・・・・・、りかさんじゃん。」
廊下でぶんとすれ違う。
「遅いね、こんな時間まで仕事?」
形の良い唇を尖らせて、切れ上がった大きな瞳で俺を覗きこまれる。
「・・・・・何だ?」
少し色の薄い瞳。
そこに映る自分の姿に、訳もなくいらつく。
顔を背ける。
「でも、こっち、りかさんの部屋じゃないよね。」
そう言って無邪気そうに笑う。
「お前の知ったこっちゃねえだろう。」
唇は動かさずに呟く。
まるで自分に言い聞かせるように。
ぶんは笑顔のまま、
しばし考えるように俺を見上げ、肩を竦める。
「そだね。」
そして、ひらひらと手を振って去って行った。








無言で扉を開く。
ゆうひはいつもと変わらず、ただ静かに目を上げる。
「風呂とソファ、借りるぞ。」
「どうぞ。」



カフスを外し、タイを毟り取る。
バスルームの鏡に目を上げる。
なんて顔だ。
うんざりしたまま、水栓をひねる。
飛沫の中で、心の澱をこそげ落とそうと。




水音の向こうで、二重写しの音がする。
繰り返されるのは、あいつの声。




俺はあいつの声を、知らない。










「一息つきますか?」
ゆうひがグラスを持ってくる。
物問いたげな気配は微塵もみせず、グラスを差し出す。
「ああ。」
流し込むバランタインは、ただざらつきを焦がすだけで、
このひやりとした陰鬱から、俺は抜けることができない。
両手でグラスを囲みながら、ただじっとゆうひは座る。
網膜に映っている俺は、どれほどに惑っていることだろう。
固く目を閉じて、そして酒を呷る。
それでも消えない残像は、俺ではなく。
響く叫びも、俺ではなく。




いつしかゆうひの手首を掴んでいた。
それは流れに抗おうともがく、溺れる者のように。
彼の顔が上がる。
静かに俺たちの視線は、ぶつかりあう。
夜が深く裂ける。
ゆっくりと手首を引き寄せる。
俺は戸惑うように、握る手に目を落とす。



そしてゆうひは静かに笑う。
「これは、俺の問題じゃありませんから。」
そういって、手首を軽くひねる。
そして、俺たちの手は離れる。





「そうだな。」
口の端がいつのまにか上がっていた。
堪らない自己嫌悪が、いきなり足元から這い上がる。
血管に、冷たいなにかが逆流するような。
憐憫すら湧かないほどに、それは身体を這い回る。
「ガウン、借りてくぞ。」




ゆうひの扉を閉める。
















冬の夜は、雲が晴れる。
月の翳の白さは、きんとした冷たさを纏う。
こんな夜はカーテンを開けておく。


あいつはもう一週間近く帰ってこない。
だから、俺は大きく開いた窓際にそっと腰を下ろす。





深い夜の空の底に、沈んだような月は穏やかに冷たい。
靄つく心が晴れるようで、ベッドで月の翳を浴びる。
聞こえてくるのは、夜の沈んでいく音。
ひたすらに目を開き、耳を澄ます。
忘れたいこと、考えたいこと、どれがどれやら分からない。
混乱しているというわけじゃない。
ただ、混沌としてしまった頭を眺めているだけのような思考しかできない。
立ち止まることもできない。
でも、歩き出すことも。
転ぶのが怖いわけじゃない。
怖いのは、見えないこと。
怖いのは、聞こえないこと。
見えるはずのこと、聞こえるはずのこと、感じるはずのこと。
心のどこかが麻痺してしまっている。


だから、月を浴びる。














寝室の扉を開ける。
白い靄に包まれるように、あいつが座っていた。

















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