32.
目覚ましが鳴る前に起きる。
広いベッドは冷たいままで。
ぼんやり一人起き上がる。
仕事がたてこんだのかな。
適当に顔に水かけて目を覚ます。
俺が気にすることじゃない。
無理やり歯ブラシつっこんで。
だからなんだっていうわけじゃない。
さっさとパジャマを脱ぎ捨てる。
俺が気にすることでもない。
シャツをひっかけ鏡でチェック。
後ろにがらんと妙に広い部屋が映る。
「遅くなってすみません。」
厨房に飛び込んで、エプロンに手を掛ける。
「あ、タニくん。
そっちじゃなくて、これ、頼める?」
ねったんの指差した先にはブランチのワゴン。
「あ、いいけど。
運ぶの、どこ?」
洗い場の俺がいいのかな、とか思いながら聞く。
「ええとね、ゆうひさんの部屋。」
結構な量があって、二人分位かな。
「えっと、いいんですか俺で?運ぶの?」
ちゃんとしたテーブルセッティングとかはまだ無理なのにとたずねてみる。
「なんか、たにさん空いてるんなら運ばせてくれってことでしたから。」
不思議そうにキムが言う。
「そりゃ・・・空いてるっていわれりゃあ・・・・」
小刻みにゆれるワゴンのバランスをとりながら、廊下を進む。
広く窓のとってある屋敷は、朝の光が一杯に広がって。
あの冷たいリネンの感触が身体から抜けていくみたいだ。
あの時、なんであんなに冷たいと思ったんだろう。
こんな朝日が射しているのに。
あの部屋が、どうして冷たかったんだろう。
下らない事ばっかぐるぐるするのはやめよう。
俺は俺なんだから。
いまんとこお情けの見習で。
帰るとこなんかなくて。
いいかげん腹を決めないといけなくて。
そして、このわだかまる物は何なのか。
目を逸らし、朝日に顔を向ける。
その皮膚に染み込むような温かさ。
わだかまりがほんの少し溶けたような、気がした。
長い廊下の奥の部屋、そういやゆうひさんの部屋には来たことないや。
どうしてわざわざ俺なのかな。
ドアの前で、そんな問いが浮かぶ。
そういうことはもう少し前に考えておくべきだった。
何か話でもあるのかな?
あの人は大和組の件には絡みはないはずだし。
大体あいつの右腕が、俺に何の用があるってんだ。
俺はあいつの部屋にいるけど、だけど何にもなってない。
仕事絡みの話なんて、およそあるわけないほどの下っ端だ。
なるようになれ、と思いながらノックを二回。
ドアの向こうに人の気配。
「悪かったな。」
髪を乱したりかが立っていた。
「あ・・・・」
俺は開いた口を閉めるのが精一杯で。
ネクタイを緩め、隈の浮いた目が扉に凭れかかる。
額に手をやって、一つ大きく息をする。
「準備を・・」
すり抜けようとする俺を手で制する。
「ああ。ここまででいいから。」
浴びたような酒と煙草の匂い。
なぜか顔をあげられない。
「でも。」
「後は俺が持ってく。」
そういって、ワゴンと一緒に扉は閉まった。
背中にあの時の冷たさが、何故か戻ったような気がした。
「メシが来たぞ。」
りかが憮然として、ワゴンを押してくる。
「あなたは?」
「俺はコーヒーだけでいい。」
そういってポットからコーヒーを注ぐ。
ゆうひが言いにくそうに口を開く。
「何か食べたらどうですか。
よく寝ていない・・・顔ですから。」
「俺のことはいい。」
ゆうひの薄い唇が、皮肉に上がる。
「昨日の夜からそればかりですね。」
りかの横たわっていたソファに、ちらりと目を向ける。
「邪魔だったか?」
「いえ、俺は別に構いませんが。」
この贅沢な人には、およそ寝苦しい事この上なかったことだろう。
リミットまで仕事をして、人の部屋に転がり込んで。
無言でソファを占領し続けた。
安らかな寝息などあるわけもなく。
ただ闇の底で追い詰められた獣のような、低い息遣いだけが時折響いた。
およそプライベートには頑なな、この人のすることじゃない。
逃げ出すほどに追い詰められないとわからない人種もいるということが、
同じゆうひにはわかってしまう。
わかってしまう心地よさと、
わかってしまう痛みとは、どちらが大きいのだろう。
つい口が滑る。
「何故、わざわざあいつに運ばせたんですか?」
「別に・・・・意味なんてねえよ。」
「たにくん、疲れてない?」
「いいえ、充分寝てるから、元気。」
だけど、昼メシの箸が重い。
どうしてこんなに、今日のご飯は味がしないんだろう。
そう、あのとき食べたサンドイッチみたいだ。
なんにもなくて、誰もいなくて、
俺はたった一人だってことを初めて認識した時の。
だけど、こんなに食堂は満員で。
俺のまわりもぎゅうぎゅう詰めで。
言葉をかけてくれる人さえいるのに。
あの時とはなにもかも違っているはずなのに。
でも、顔が上げられなかった。
でも、喉が詰まってた。
「じゃ、俺片付けしますから。」
半分も食べられないままに席を立つ。
ふかふかの絨毯に足をとられそうになる。
頭と身体が別々になってるみたいで、
気は急いているのに、なぜだか身体が重い。
スポンジにたっぷり洗剤を浸す。
片っ端から皿を洗って、ただそれだけを考える。
だけど足元が冷たくて。
背中からすとんと落ちそうで。
高速に揺られてた、もう遠いあの日みたいに。
SEO |