30.
風がざわつく。
硝子が震える。
ベッドで何度も寝返りを打つ。
俺はあれから口をきくことも無く、屋敷に戻る。
仕事の打ち合わせだか何だかで、あいつはすぐに行ってしまった。
一日留守にしたことを、厨房の皆に詫びて。
二人分のメシを貰って、俺は一人部屋へ戻る。
今日一日、とても長かったような、
それでいて目まぐるしかったような。
だけど、部屋は変わらない。
たちこめるのはあいつの匂い。
逃れたいのに逃れられない、息苦しい。
メシをかっこんで、シャワーを頭からかぶり。
それでもこの閉塞から、逃れられぬまま。
のろのろと寝巻きに着替える。
遠く白い月が、冴え冴えと。
ブランケットに包まる。
カーテンを少し開け、高い月が見えるように。
不意に心臓が掴まれるような感触がする。
一人、ってこういうことなのかもしれない。
つま先が冷たくなる。
掌を爪が食い込むほど握り締める。
奥歯を噛み締める。
そんなふうに身体を繋ぎ止めないと、あの夜空に放り出されそうで。
とりとめのない思いが、渦を巻き散ってゆく。
焦点を結ぶ前に顔が、浮かんでは消えてゆく。
何かに繋ぎとめて欲しい。
それほどの冷たさが、流れ込んでくる。
心が息苦しい。
目を瞑る。
頭の奥で様様な声が音が、遠く聞こえる。
網膜の裏に顔が景色が、浮かんでは消える。
だけどそれらは触れることは消して無く。
ただ傍らを流れすぎてゆく。
取り残され、隔絶された捻れた思いだけが尾を引き続ける。
体温が下がってゆく。
どれほどにそうしていた事だろう。
大分と更けた頃、扉の開く音がした。
ぼやけた頭に感じる、人の気配。
微かな足音、ネクタイを外す音。
ほんの僅かに身体が弛緩する。
流れが穏やかになる。
何故なのかなどと考えるほどに頭は動いちゃいない。
細い指先が、
触れたような気がした。
月明かりの下で、丸くなる身体。
睫にかかる翳だったのかもしれない。
触れる気など無かった。
涙でなどであるわけは無いのに。
規則正しい小さな寝息が聞こえてくる。
いつもと変わらぬ夜の中で、いつものように俺はこいつを見下ろして。
月の翳に浮き上がる、細い鼻梁、小さな口。
囚われる。
何故なのか。
それはこの、形をなす肉体ではないのか。
網膜に映せない、奥深いそれはなんなのか。
静かな部屋で、時折交錯する視線。
墓地を頭を上げ、歩む背中。
過ぎ行くヘッドライトを、映し出す瞳。
身体の下の、苦しげな吐息。
寄る辺の無い孤独。
縋る事も出来ず、流される事も無く。
ただ戸惑った子供のように、立ち尽くす。
微かに彼方が見えてくるのだろうか。
それは突き抜けるような天か、底の無い闇か。
もがくことも無く、沈んでいった自分。
全てが流れていく中で、只立ち止まり風だけを感じながら。
風に吹かれながら、風上を目指し足を踏み締める。
そんな強靭さなど、あるわけがない。
たとえこいつであっても。
反芻するように思いを噛み締めながら、
その頑ななまでの殻に、亀裂を入れてしまったのは俺だというのに。
その下にあるものから、今はまだ目を背けていたい。
囚われるのは、欲情だけでいい。
俺は。
苦く口の端を上げ、窓辺で煙草に火をつける。
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