ひめゆりの塔「行かぬわけには」 首相の異例訪問、背景に西田氏発言

川嶋かえ 伊藤和行 上地一姫

 戦後80年の「慰霊の日」を迎えた沖縄。今年、沖縄戦の解釈を巡る政治家の発言が相次いだ。背景にあるものは何か。

首相、「沖縄戦」への思いにも言及

 沖縄県糸満市のひめゆりの塔で、献花台に花を置いた石破茂首相は、約5秒間、礼をしたまま黙禱(もくとう)した。

 現職の首相が、慰霊の日の23日にひめゆりの塔を訪れるのは極めて異例だ。朝日新聞の「首相動静」によると、1995年の村山富市首相(当時)以来で、30年ぶりとなる。

 隣接するひめゆり平和祈念資料館を視察した後、首相は記者団に「どうしてもこの場に行きたかった。不戦の思い、戦争の悲惨さ、それをもう一度自分の胸に刻まねばならないという思いで、ここへ参った」と語った。

 ひめゆりの塔は、沖縄戦に看護要員として動員され犠牲となった女子生徒らを悼む碑だ。資料館は、沖縄戦の実相や学徒たちを戦場にかり出した当時の教育のありようを伝える場となっている。

 訪問の背景にあるのが、自民党の西田昌司参院議員が5月に、ひめゆりの塔の展示内容を「歴史の書き換え」などと発言した問題だ(後に一部撤回し謝罪)。

 発言に対し、沖縄戦の体験者らを中心に「実態を分かっていない」と強い批判が上がり、沖縄県議会は謝罪と撤回を求める抗議決議案を可決した。野党のみならず与党内からも問題視する声が相次いだ。

 少数与党での国会のさなか、参院選を控えて支持率低迷に悩む政権側の対応は早かった。首相は国会で「(西田氏とは)認識を異にする」と答弁。首相官邸で玉城デニー沖縄県知事と面会した際にも「党総裁として深くおわび申し上げる」と陳謝した。

 首相周辺は「西田氏の問題があった以上、ひめゆりの塔に行かないわけにはいかない」と話す。首相が自ら訪れることで、西田氏の発言にくみしない姿勢を改めて明確に示すことが必要だった。

 一方で首相はこの日、「沖縄戦」への思いにも言及した。「国民保護法制を作るときにも沖縄戦が頭にあった」「決して民間人を戦場においてはならない。その教訓はこれからも生かしていかなければならない」。こうした考えが、首相をひめゆりの塔に向かわせた面もある。

 ただ現時点で、首相の沖縄への思いは、沖縄が求める政策に結びついていない。

 県が求める日米地位協定の改定について、首相は23日、「他国との比較検討も行い、政治全体で議論を進めたい」としつつも「真剣に取り組まなければならない」と述べるにとどまった。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設をめぐっても、宜野湾市と直接協議する場を設け、反対する県を除いて移設を推し進める姿勢を鮮明にしている。

沖縄戦の「教訓」を踏まえているか

 「凄惨(せいさん)な沖縄戦の実相と教訓は、戦争体験者が心の傷を抱えながら後世に伝えようと残した証言と、沖縄戦研究者のたゆまぬ努力によって今日まで受け継がれてきた」

 玉城デニー知事は戦没者追悼式の平和宣言でこう強調した。

 念頭にあるのは、西田氏ら政治家による沖縄戦の解釈や歴史観をめぐる発言だ。

 「(沖縄では)むちゃくちゃな教育のされ方をしている」とも述べた西田氏の発言には、前提がある。「緊急事態になる前に、国民保護できるための法律の整備をしないといけない」などと訴えたあとで「ひめゆり」を持ち出していたのだ。

 政府は、南西諸島での防衛力強化「南西シフト」と並行して国民保護法による避難計画づくりを進めている。また、自民党はかねて、武力攻撃や自然災害時に政府に権限を集中させて特別な措置を講じる「緊急事態条項」を憲法に盛り込むべきだと主張している。

 一方、沖縄では、かつて日本軍が強力な立場を利用し、住民を「根こそぎ動員」したり、離島の住民を強制疎開させマラリア感染者が増えたりした結果、県民の4人に1人とされる12万人以上が犠牲になった。「平和の礎(いしじ)」に親族の名前が刻まれている地元政治家も多い。

 自衛隊の配備そのものについては、玉城氏を含めて、「専守防衛」の範囲であれば必要と考える人が沖縄でも多い。ただ、軍の論理が優先された沖縄戦の「教訓」を踏まえることが前提だ。

 ある自民県議は「我々には、過去の戦争の苦難の経験を積んだという事実がある。(西田氏は)県民の感情を逆なでした」と話す。

 今月12日には、中谷元・防衛相が沖縄戦について「(日本軍の)作戦が『捨て石』であったという考えは一切持っていない」と答弁した。これにも県内からは「きちんと学んでいないのでは」との声もあがる。

 玉城氏は式典後、記者団にこう語った。「一側面だけを強調すると都合のいい解釈になる。(政治家には)沖縄戦の実相を様々な角度からしっかり受け止めていただきたい」

「沖縄に寄り添う」紋切り型の答えばかり

 沖縄戦の「歴史観」をめぐる摩擦は、今回が初めてではない。第1次安倍晋三政権時の2007年には、高校日本史の教科書検定で、沖縄戦の「集団自決」の記述から日本軍の「強制」を削除する意見がついたことが判明。県内で反発が広がり、抗議の県民大会には11万人(主催者発表)が集まった。

 当時の沖縄県議会議長で、大会の実行委員長を務めた仲里利信さん(88)は、国の変化を実感してきた。

 かつて政府与党には、沖縄の歴史を踏まえ「深い反省と思い入れ」をもった重鎮たちがいた。野中広務氏、橋本龍太郎氏、小渕恵三氏、梶山静六氏……。いまも沖縄側から評価する声も多い。

 自身も自民党に所属していた仲里さんは、教科書検定問題のころから「国策への協力」を求める姿勢があからさまになってきたとみる。

 14~17年には衆院議員になった仲里さんは、永田町や霞が関で何度も失望した。「沖縄に寄り添う」「できることは全てやる」と紋切り型の答えしか返ってこない。「沖縄は日本の防波堤」としか見ていないと感じた。

 14年の県知事選で初当選した翁長雄志氏も、「沖縄の基地問題の原点は、米軍の強制接収にある」として、普天間飛行場を返還するために県内移設するのは「理不尽だ」と主張し続けた。しかし安倍政権は取り合わず、名護市辺野古での工事を始める。その後の政権も、沖縄の知事と対話する姿勢すら見せない。

 仲里さんは、西田氏の「ひめゆり」発言を、一議員の失言と片付けられない。沖縄は、いまも昔も「防波堤」のままなのか。「また戦争になったら……。そんな沖縄の不安はわからないのだろう」

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この記事を書いた人
伊藤和行
那覇総局長
専門・関心分野
沖縄、差別、マジョリティー、生きづらさ
上地一姫
東京社会部
専門・関心分野
沖縄・平和
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