「生きているのは自分だけか」 家族失いさまよった 91歳の沖縄戦
おじいちゃんもここに眠っているはず――。80年前、日米両軍による地上戦で多くの住民が犠牲になった沖縄。10歳の少女は次々と家族を失い、最後は一人、戦場をさまよった。卒寿を過ぎた今、経験を語り継ぐが、世界は戦火が絶えず、危機感を募らせる。「過去を責めるよりも、過去に学ばなければいけない」 【写真特集・沖縄戦】前線近くの亀甲墓にいた2人の幼児 沖縄慰霊の日の前日の22日、那覇市の玉木利枝子さん(91)は沖縄県糸満市にある慰霊塔「萬華(まんげ)之塔」を訪れた。この地域で父方の祖父は米軍の攻撃を受けた後に亡くなったが、玉木さんら家族は亡きがらを置いて避難するしかなかった。「証拠はないけれど、ここにまつられていると思って」。手を合わせ「会いたがっていた家族に会えましたか」と語りかけた。 祖父ら一家10人が逃避行を始めたのは1944年10月のこと。「10・10空襲」と呼ばれる大空襲で、那覇市内で医師をしていた父の病院が全焼し、宜野湾へ移った。母とは戦前に幼くして死別しており、年が明けると父と叔父が召集された。軍服姿の父に抱き上げられた時のゴワゴワした服の感触は、今も覚えている。 45年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸。8人になった一家は南下を決め、日本軍の第32軍司令部があった首里に行き、父の所在を尋ねた。 だが、手がかりはつかめないばかりか、潜り込んだ首里の壕(ごう)で、日本の軍人から「軍隊が使用する。日暮れとともに出るように」と言われた。その夜、母方の祖母は自ら命を絶った。 東風平(こちんだ)村(当時)に向かい、ようやく小さな壕を見つけたが、そこに砲弾が落ちてさく裂し、仲の良かった同い年の子が目の前で即死した。兄も重傷を負い野戦病院へ。左腕を切り離され、最後は「水が欲しい」とうめきながら息を引き取った。 東風平の壕も、近くの壕が火炎放射を浴びたことで退去を余儀なくされた。「逃げ場がないのに逃げ場を探す」状態だった。 祖父も攻撃にさらされた。入り込んだ農家の小屋で集中砲火に遭い、背中から脇腹にかけて被弾。手負いの祖父は、叔母らに促し、一緒にいた家族を石垣の陰に隠れさせた。程なくして「今まで聞いたこともない声」がした。祖父が家族の足手まといになるまいと自決したのだ。 父方の祖母は別の攻撃で即死した。血の一滴も流れず、苦しまずに死んだのだと思うと、祖母に「良かったね」と声をかけていた。叔母やいとこも負傷。動けなくなった叔母は言った。「早く逃げなさい」 ついに一人になり、「沖縄中で生きているのは自分だけではないか」と不安に駆られた。その日の暮れ、数々の死体が横たわる先に存命の人影を見ると、一目散に走り、名前も聞かず黙って寄り添って行動した。 「おーい、戦争が終わったぞ!」。ある日、脅威だった戦闘機(グラマン)が飛んでいないことに気づき、確かめにいった男性が丘の上から叫んだ。後に続いて丘を登ると、四方八方から避難していた人たちが歩くのが見えた。「これほどの人が生きていたなんて」。その場所は摩文仁(まぶに)村(現・糸満市)の近くだった。 戦後、奇跡的に助かった叔母とは再会したが、行方知れずの父は戦死し、確かに生き残った家族は2人だけだった。家族を置き去りにし、兄の死に際に水を飲ませてやれなかった――。後悔はいまだ消えず、眠る時に睡眠薬が手放せない。 それでも「決して忘れてはいけない」と語り部として自身の体験を語り続ける。6月上旬、沖縄を訪問された天皇、皇后両陛下と長女愛子さまとも面会し、体験を伝えた。 世界を見渡すとロシアによるウクライナ侵攻に加え、イスラエルがイスラム組織ハマスとの戦闘を続け、イラン国内への武力攻撃を激化させている。「戦争は始まってしまうと先が見えなくなってしまう。国と国との欲の果てが戦争です」と玉木さん。「始まる前に手を打たなければいけない。外交や経済協力、文化交流を通じて働きかけていくことが大事だ」。そう思いを強くしている。【日向米華】