【第七場】
天は鳶色の翳を帯び、やがて地平は別たれる。
重く纏わる靄を一つ振り払う。
若者は手綱を握り締めた。
掌に固く爪が食い込む。
昨夜の名残の香りが包む。
オレンブルグには、政府の軍隊が。
ひたすらに馬を駆る。
身体が軋み声を上げる。
靄よりも重い熱情が、密やかしめやかに
身体の芯に息づく。
朝焼けに靄は切れ切れと、やがて天に溶けた。
蹄は遠きに去ってゆく。
サモワールを火にかける。
凍てつく朝に炎がゆらめき、
そして、一日が幕を開ける。
懐かしさなどとても感じない、そんな貧しい村だった。
その日を生き延びられるなら、ただそれだけの時が過ぎてゆく。
恵みのない大地、這いずるようにただ生きる。
コサックの大集団に踏み潰され、そんなものだと呟けた。
このまま、腐り地に帰る。
狼の目の青年は、そう信じていた。
「来るか。」
逆光の馬上で声がした。
凍土が覆うこの大地にへばりつく。
明日も呼吸をする為だけに。
そんな生に飽き飽きした。
青年は走り出した。
面白いように、砦が崩れた。
暴徒の波は、いつしか怒涛となり。
モスクワを目指す潮流となった。
引き返す途など捨てた、それが男の口癖だった。
捨てる途さえ持たない、だから青年はただ走り続けた。
膨れ上がる波頭で男は全てを殺いでゆく。
脱獄囚から皇帝へ。
そして、擦り切れた毛皮だけが残る。
青年は毎朝飲み物を運んだ。
朝焼けの、ほんの一時の静寂だけで、彼はただ走り続けた。
砦が陥ちる度、女達と夜通し宴会が開かれる。
時折、男は女を呼ぶ。
女が皆黒い瞳を持っていたことを、淡い瞳の青年は知っていた。
あの朝もそんな女だった。
女とすれ違い、テントに入った。
流れる黒髪を梳き上げ、男が半身を起こす。
いつものように、茶を入れた。
寝台に掛かる毛皮に、目が止まる。
いきなり男が口を開く。
「女は、嫌いか。」
女を抱かないわけではなかった。
「気に入ったのがいたら連れて行け。」
だからといって好きでもなかった。
そんなものだろうと思っていただけだった。
だから、見つめていた。
「毛皮の方が、好きか」
りかは苦笑した。
不思議そうにゆうひは顔を上げる。
先陣を切る背にいつもこの目を感じていた。
自分と同じ、飢えた浮浪者だった。
違うのは、只一つ、
どこまでも透明なその瞳は、全てを湖底に沈め厚く氷を張っていた。
静かな眼差しは、息一つ乱さず戦いの日々を映しつづける。
「欲しいか。」
ゆうひが頷く。
何処かで、氷が軋む音がした。
幻も潮時か。
心はじきに炎で焼き尽くされる。
夏でも凍った湖は、時を延ばしてくれるのかもしれない。
背に汗が染みる。
触れた皮膚が焼ける。
氷が音を立て崩れる。
何もかもを、焼き尽くしてしまえばいい。
過去も未来も炎が舐め尽くす。
そして、全てが尽きた荒野を彼は橇を飛ばす。
燃え盛るような吹雪を駆る狼になろう。
吹雪の彼方は、切り立った崖か。
彼の手綱なら、それでも構わない。
タイガを渡る風が強くなった。
灰色の天は冬に蝕まれる。
今日も、一日が始まる。
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