エアコンが冷たい風を吐き、目の前の扇風機がそれを切る。暇を持て余してしょうがない合歓垣フブキは突っ伏したまま腕の隙間から視線を遣って、虚ろなまま、その羽の残像を捉えようとしていた。その遊びにさえ飽きてしまった私はいよいよ無限とまで感じてしまう時間の使い道も考えられず途方に暮れていた。
今朝早く、まずキリノがパトロールために外出し、そこから三十分が経たないうちにヘルメット団が少し離れた大通りを占拠しているとかなんやらでここの半分を率いて出払ってしまった。そのすぐ後で応援要請でもう半分をも持って行ってしまったところを見るに、ヘルメット団相手に手こずっている情景が想像できる。ここで私は事務所を空にしないための留守番役を買って出たのだ。
出動するのをしかと見送って、私一人であることを確認してからは早かった。机上にクロスワードを取り出してドーナッツ片手に、それはもう充実した時間を過ごした。だが、しばらく経てば一ヶ月ほど前に買ったクロスワードも終えてしまい、箱で買っておいたドーナッツも切れて、いよいよ手持ち無沙汰である私には扇風機もを娯楽に思えてしまうのだった。
こうなるのであればキリノのパトロールについて行くべきだったな、と今では後悔している。とはいっても、私が昼寝を差し置いてまで面倒事に首を突っ込もうだなんて、そんなことが有り得ないことは他でもないこの私が一番知っている。この際、「モンスターキッズもじさがし」でもいいから娯楽が欲しい。普段であれば、昼寝に逃げることもできたであろうが、昨晩は珍しく快眠を極めたので軽く寝ようにも目を瞑る気になれない。だからと言っても、暇だ暇だと言って公務をする気はさらさら無い。扇風機の羽を追うのに忙しいだなんて私自身も腑に落ちないような言い訳を付けながら、やはり私はとんだ物ぐさ太郎なのだと気づくのだった。
煩悩を抹消して「扇風機の修行」に勤しんでいると、ふと机上左隅においたデジタル時計が目に入ってしまった。どうやら修行を始めてようやっと長針が十歩進んだところだったようで、私らしくなく、両手を使っても持て余すほどの暇に押しつぶされそうだった。それは、まさに文字通りに上から重圧がかかっているかのような感覚で、やはり私は再び、キリノの誘いを断ったあの時の
無意識のうちに滑稽な無観客ワンマンショーが繰り広げられていると、一本の電話が入った。受話器の向こうの生徒は、よっぽど焦っていたのか、そこらに吃りを連ねて、それでいて驚くほど早口であったために全てを聞き取ることは難しく、ミレニアムに通う私と同じ一年生の通報の概要はこうである。
「部活から帰ってきたら家の鍵が開いていて、中から何か物音がする。それは今もずっと続いていて怖いから来て欲しい」とのこと。
電話越しでも慌てているのが目に映るミレニアム生を宥めた後、(その子には悪いとは思うが)突如として棚から飛び出た牡丹餅に喜びを隠せなかった。空腹の末の牡丹餅である、誰が冷静でいられようか。受話器を手に取ったままフックスイッチを長く押して、キリノの携帯に掛け直してその旨を伝えた。いつもであれば住所だけ伝えてキリノ一人で向かわせるところだが、有り余った時間に気が滅入ってしまってはいけないと、私も現場に向かうことにした。
晴れ渡る空の白群に溶けてしまいそうな屋根を目視できたところで一足早く到着していたキリノと目が合った。
「通報した子はどこ?」
「状況の説明だけしていただいて、その後に連絡のついたご友人のお宅に匿ってもらいました」
「鍵は預かった?」
「いえ。帰宅した時には開錠されたあとだったそうなので……」
キリノに状況を聞きながら玄関の側まで向かう。ドアのハンドルに手がかかるところまで近づくと、きちんと違和感を抱く程度のボリュームの音が聞こえるようになった。
「えっと、これは……」
「はい、ずっと何かを漁るような音がしているのです」
ドアの表面に耳を添えて、この向こうで起こっていることに注意して耳を澄ませていると……
————ガサガサ、ガサガサ……ガタン!
何をしているかまでは分からないが、そこには確実に何かがいる。
突入の手順を確認しつつ準備を進める。私の小銃は定期メンテナンスを外に頼んでおり今は持ち合わせていないので、私はドアを開ける役に回る。そうなると、当然、最初に突入するのはキリノになるのだが、彼女の手に握られた拳銃に微かな震えが見られた。
「当たるといいね〜」
緊張を解くために咄嗟に出た戯言にキリノは一瞬、驚いた様子を見せ
「ぇ、あ、あぃ、いえ! そ、そんなことないです! その時が来れば命中させて見せます! それに今回は人質をとられているわけではないので誤っても被弾するのは犯人ですから!」
そういえば、犯人を狙って撃った弾を悉く人質に浴びせてしまい、犯人が半ば引いていたこともあった。本来の目標物に対する狙いの定め方について、その時にキリノは独自の手法を編み出して克服したものだから今回は彼女を信じても良いと心から思えるのだ。キリノには笑って誤魔化されたが、一度緩んだ緊張を再度張り直す余裕が生まれたようだ。手元はキリッと構えられていた。
カウント三つで、私がドアを開ける一瞬で、キリノが中へ進んで制圧を試みる。キリノに小声で合図を送る。
「いくよ」
互いに目を見て頷く。
「いち」
犯人に聞こえないように静かに努めてハンドルに両手を被せる。
「に」
———音だ。額に居た汗のうち一粒が流れ落ちた音。
「……さん!」
私が作ったドアの隙間を切って入ったキリノが叫ぶ。
「ヴァルキューレです! 動かないでください!」
……。
———ガサガサ、ガサガサ……ガタン!
犯人は私たちに反応することはなく、未だ何かを漁り続けている。逃げようとも、抵抗する素振りも見せなかったことから、相手は私たちに気づいていない“ということにした”。そう言ったのには訳がある。その状況が私たちには底知れぬ恐ろしさを植え付けたのだ。というのも、相手は動きを見せないのである、キリノが大声を出したのにも関わらず……。「存在を気付かれないよう息を潜める」のであればまだ理解は易い。しかし、そうではないのである。ここまで無配慮に物音を立て続けるのだから常人ではない。その些細な気付きは私たちを恐怖一色に染め上げるには十分であった。私たちには専ら、犯人には人質を取られていて、罵声をもって抵抗してくれた方が、幾分も安堵できるのだった。
外から聞くだけでは分からなかったことはもう一つある。中に入って家の構造を見て、より明瞭に音をきくことによって、その不可解な音の発生源が分かった。ここ玄関正面、廊下を半分ほど行き、向かって右手の部屋。ドアは完全に開いている。犯人はそこにいる。相手はまだこちらには気付いてない……信じて疑ぐることができないまま、不意を突いて確保する作戦を提示した。抜き足差し足……床板を起こさぬように、慎重に……音で人々を魅了したかもしれないシカモアカエデ、何度目かの一生の頼みである、今だけは歌わないよう乞い願う。ここまでは順調、私たちは息も存在も殺せている。
歩みを進め、いよいよ犯人がいる部屋が目の前に迫った。その瞬間を今か今かと待ち侘びる心を鎮めて一つ、妙なことに気がついた。私たちが「漁っている」ように聞こえた音が、いざ耳をすぐ側まで置くとどうもそのようには聞こえないのだ。今まで鳴っていた音の中に、機械の動作音のようなものが混ざっていることに気がついた。もしかすると犯人はロボットなのかもしれない。通報した生徒を狙ったストーカーか、金品目的の強盗か……いずれにしても外にいる人も気付くほど大きな音を出し続けるのは妙手とは言い難い(これも犯人の作戦のうちなのかもしれない)。押し潰していた“気付き”が一気に甦り季節外れの寒風を背筋に許した私とは裏腹に、熱い心を胸に据えて瞳に火を灯らせたキリノは、私を捨て置いて部屋の沓摺りを見下ろしてすぐのところへ飛び出て銃を構えて再び叫ぶ。
「動かないでください!」
直後、部屋に向けられていた銃口がスッと下ろされていくのを見、キリノの口元が緩くなっていったのを見、困惑を全面に押し出した顔を横から伺うだけでは状況を理解することはできないと確信した。目を皿にしてすっかり固まってしまった
下敷きになったまま踠き続ける円盤ロボットが健気に思えて、放っておくのも可哀想なので掃除用具を掻き分けて救出した。やがて、その全体像が露わになると、すぐにそれが掃除ロボットだと分かった。ロボットの天面に並ぶ複数のボタンの一つに「掃除開始」の文字がある。よく見れば底面にはブラシがくっついたモータもある。後背に見える透明の箱は大凡、ダストボックスだろう。さらに詳しく見てみると、正面のカメラセンサの下には「ルリちゃんへ」と書かれた半透明の小さな付箋が貼り付けてあった。傷も塵もついてない新品同様の車輪三つとダストボックスと、付箋の内容を併せて考えると、掃除ロボはこの家に来て間もない、家主への贈り物だと捉えるべきだろうか。初めて生で見たロボット掃除機に心浮かせて、観察し推察していると側面に小さな違和感を覚えた。純白のガワの上からトラテープが部品の型に沿って枠を作っていたのだ。このようなものは可動域につけられる、とばかり考えていたのもだからついキリノに聞いた。
「ねぇ。これってなんでだと思う?」
キリノがひょいと顔を覗かせる。
「黄黒の警戒用テープですよね。ポリスラインとしてよく見かけますよね。でも……」
キリノは顔を難しくして続けた。
「でも、不思議ですね。ここが動くことなんてあるのでしょうか。ここに新しい機能が隠されているとでもいうのでしょうか……。」
二人して顔を強張らせていると、ここに思索の対象とされていたロボットが喋り出した。
————音声認証を開始……
「ん? キリノ、何かした?」
「い、いえ! 本官は何も!」
……未登録の音声を確認。侵入者の
自動アナウンスの直後、先ほど話題にあがっていたトラテープの部分が脱落し、そこからミニガンが両側に一丁ずつ露呈した。ロボット掃除機はたちまち兵器へと化した。
殲滅モードに移行……リミッターを解除————
キリノ! 離れて!
声を発する前に、次の手を考える前に、私はキリノの腕をがっちり掴んで引き込んで射線上から退いた。その刹那、飛び出た無数の弾丸がキリノのすぐ横を掠め取る。空気を割って走るそれらに気が付く頃には、鉛が怒号を伴って壁を抉った後だった。呆気に取られたキリノの腕を握ったまま廊下を進んで奥の部屋へと避難する。アレを制圧するとなれば、銃を使わざるを得ない。市民が暮らす閑静な住宅街に銃声を響かせるのは避けたかったが、アレをこの家から外に出してしまうのは絶対にあってはならない。それに、私たちが抵抗しなければ相手は弾切れを起こすまで侵入者と見做された私たちを攻撃し続けるに違いないから、決着は早々と着けてしまった方が良い……
……でも、どうしたら……。
「……!」
私はひとつ策を立てた。動悸をして本来の鼓動を忘れたキリノを落ち着かせてそれを伝える。キリノはハッとした様子で私の顔を見た。迷っている暇はない、私たちがやらなければ市民に危険が及ぶ……ロボットはまだ部屋の中にいるようだ。廊下を見つめる銃は静かにその時を待つ。今はキリノを信じるしかない。すぐ後ろに迫る壁を背中に感じて、中務キリノは決意する。固めた銃口は澱みなく、小さな歪みが見えるまで、ここでは誰も動けない。
車輪が駆動する音。
白い装甲が見える。
まだ“目標”は見えない。
黒光りする砲身の筋が見える。
まだ目標は銃先にはない。
胴が這い出る。
全貌が現れる。
方向を変えた。
筒先で拾えるだけの全てを威圧する赤い
……見えた!
弾薬が爆ぜたかと思えば、それは見事に奴の目を貫いていた。
視覚機能を失ったロボットは混乱した様子で、動作を不規則にした。キリノは素早く近づくと、残弾すべてを撃ち込んだ。数発が制御パネルを破壊したようで、ロボットの動きは鈍くなり、結局微動だにしなくなった。姿勢を支えていた全てが弛緩し切った私たちはしばらく死に体となったそれが吐く煙が移っている様を眺めていた。
遅れて追いついた脳によってようやっと状況がわかった。
「あ、当たった……?」
キリノの顔がパァッと明るくなって高揚を抑えきれずに応える。
「やりました! 本官はやり遂げました!」
緊く張られた空気が解かれて、その場に座り込んだ私たちは声にならない声をあげ、キリノは使命を果たせた喜びを、私は長期休暇とボーナスへの強い期待を高らかに掲げて歓喜した。カンナ局長に報告するのが楽しみで仕方がない。銘々膳に乗った各々の悦に入っていると、廊下の方で声がした。
緊急モードへ移行、自爆シーケンスを起動します……
……自爆まで……あと 5 秒……
音声の意味を理解するや否や、あれだけ溢れた歓喜の涙が瞬く間に引っ込んだ。
何も守れなかったのか? 機械音声が数字を並べる中で、自らに絶望を括り付ける。
……4……
爆風によって私が怪我をする心配など、もはや毛頭ない。心配など……そうではなくて、せっかく私たちを頼ってくれたのに、生活の場を破壊してしまうのだ……。
……3……
私たちが壊すわけではない。が、私が力不足だったから……
……2……
……この後で、先生ならなんて声をかけてくれるだろうか。私たちはきっと優しい言葉を受けるだろう、先生のことだから……。こう思ってしまう私にもまた失望、してしまう。
爆発寸前の場の重さを一身に乗せた。眼窩に暗い色が染みる。
……1……
行く道、行く道……私たちに示された如何なる道も闇に飲まれて先が見通せない。
その時、奥から光が見えた。玄関からひとつの影が慌ただしく入ってくる。そして叫び声が。
「音声認証開始!! 緊急停止!!!」
……。
————〈ウタハ〉さんを確認、自爆シーケンスを中止します
それからは反応はピタリと止んだ。
事務所に戻った後、カンナ局長がエンジニア部のウタハ部長を取調室へと連れて行った。長時間の取り調べを経て、怪物にでも遭遇したかのように顔を真っ青にしたウタハ部長を見送った。ウタハ部長は一体なにをしでかしたのか、気にはなるが今は溜まった疲労をなんとかせねば。机上の時計は五時を知らせる。局長の調書を読むのは明日でも良い。どうにも、もう何もしたくない私は持ち番をキリノに任せて机に突っ伏すことにした。
ここまで読んでいただきありがとうございます。