27-4 黒いマスクは仕事を終え、日の出と共に消え逝く
駄目だ。死に掛けているのに、笑いが止まらない。
笑うたびにビュっ、ビュっと、潰された手足の動脈から血が吹き出てしまうが、それすらも馬鹿らしくて仕方がない。
「はははっ! はははっ! 主様、お前は間違った!」
「馬鹿を……言うでない。御影なるアサシン、お前は紙屋優太郎で間違いない」
「はははははっ!」
主様は、答えを間違えた。
俺は、決して、紙屋優太郎ではない。
「はははははっ!」
「笑うな、笑うなッ」
主様は枝を追加発注し、俺の心臓を表と裏から突き刺してしまう。
致命傷であるべき傷を負ってしまったが、不思議な事に、俺はまだまだ元気だ。
「間違った解答を大真面目に語られれば、誰だって爆笑してしまう。俺はさ、何度も言うなと言ってやったのに、人の厚意を無視するから……はははっ!」
吹き出そうになる笑いを抑えてくれるために、苦痛を与えてくれていたようなものである。
大笑いして心地よいので、このまま盛大なネタバレをしてやろうではないか。
神秘性とやらによる不死性の消失を心配する必要はない。神秘が神秘を語るのは、極々自然な事である。
「我が何を間違えたというのだ。赤い贄の失態で、溺死した大学生がいるのは紛れもない真実ではないか」
「そこは真実で間違いない。事の始まりを探し当てた調査能力は、異世界の化物の癖に大したものだ」
「では贄共を救う動機が間違っていたのかっ。他人を救ってやるという傲慢さがお前にはなかったのか」
「そこも真実で間違いない。例え化物でも、俺に共感してくれる奴がいてくれたのは嬉しかった」
俺の気分次第で、いつでも魔法少女を絶望させられる。最悪のタイミングで助けるのを止めてやれば、どんな悲痛な表情を見せてくれるのか。そんな想像ができる毎日は本当に楽しかった。
魔法少女を、俺の思い通りに汚せる。そんな優位性に何度も達した。
本当に魔法少女を裏切った事はないのだから、これぐらいの心のどす黒さは許容されるべきだと思う。
魔法少女の怠慢で溺死事件が起きている。耳元で呪詛を呟いてやって、呪い殺されるべき罪深き少女を、天邪鬼にも助けてやっていたのだ。
誰かから恨まれる筋合いはない。
Win,Winの関係とは、俺と魔法少女の事を言う。
「ではいったい、我は何を間違えたというのだッ!!」
主様は玉座から腰を上げて、激昂した顔で水平に俺のマスクを凝視した。
「主様。お前は魔王の癖に、どうして俺を生きている方だと決め付けたままなんだ?」
「戯けた事を言うなッ。溺死体と生者の二択で、目の前で血を吹きながら動いているのは、そのどちらであるか。我でなくとも、誰であっても、生者の方であると答えるであろうッ!」
「異世界ではゾンビの一匹や二匹、珍しくはないだろう?」
「地球上でそんな不可解を認められるものかッ。それはッ! 我と同等の、魔界で世界樹が発芽する程の特異性を認めろと言うのと同、じ――ッ!?」
なかなか真相に気付こうとしなかった主様だったが、遅蒔きながら、真相に気付いてくれた。樹齢三千年で思考が硬直しているのだろうが、頑固にも程がある。
金貨を左右どちらかの手中に隠して金貨がある方の手を当てるゲームで、主様は左手を選択した。
だが、左手には金貨は入っていない。ここで、左手に金貨はあるべきだ、金貨をどこに隠したのだ、と難癖を付けるゲーマーは失笑を買うだろう。このゲーマーは主様だが。
「なんだ、神秘としての格が並ぶのが恐ろしかったのか。そんなプライドに拘っていられるなんて、実に暢気な魔王だ」
「嘘だッ! 嘘だ、嘘だ、嘘だ! お前が溺死した大学生の方などと、誰が認めるかッ!!」
「……人間の亡霊に、魔王が怯えるなよ」
「非科学的だ! 根拠がない!」
まさかファンタジー生物の口から、科学的という単語が出てくるとは、主様は重症だ。額の汗の正体は、植物だから気孔からの漏水だろう。
「俺を『同化』したスキュラが死んでしまったのは、どうしてだ?」
「『正体不明』スキルを持つ不純物を飲み込んだ結果、自己同一性を保てなくなったからに違いない!」
「石頭な見解だ。死と『同化』したから死んだだけ、この方がより空想的だろ?」
主様は立ち上がって視線を水平にしたのに、俺が上から見るような視線を止めずに、からかい続けた所為だろう。
「ならギルクは――」
俺の首は、胴から切断されて床に転がった。
「死人を騙る狂人との問答などに、我が付き合うと思ったかッ!」
主様は切れ味の鋭い葉を手首から生やし、それを横に振るった体勢で過呼吸を続けていた。
不気味な化物と対峙していたが、どうにか気力を振り絞って化物の首を落とした。そんな疲労感が主様の肩に圧し掛かっている。人間体は酷く重く、夜明けを迎える爽快感は皆無だ。
地平線に沿って続く、稜線が白く輝いている。
主様が無限増殖を開始する日の出が、ついに到来してしまったのだ。一度、主様の増殖が開始すれば、もう誰にも止められない。
「地上も静かになったか。贄共は……一箇所に集まって抵抗を続けているようだが……。最早、数人程度の人間族など、どうでも良い。こんな狂った異世界、早々に飲み込んでしまうに限る」
決戦を開始した頃のお遊び気分は、主様の心中からは完全に消え去っている。地球を全力で滅ぼそうと決意したため、人類滅亡は短期間で完了してしまうだろう。
主様がやる気を出してしまった原因は、床に転がっているマスクの生首に他ならない。
陽光の気配を察知して、気の早い若芽が主様の人間体の各所に現れる。
世界樹全体に目を向ければ、数百万の蕾が生じていた。日の出を今か今かと待ち望んでいる。
日の出まで残り一分。
天竜川にはもう人類の希望は転がっていない。
破壊された巨大重機を盾に数人の少女達が抵抗を続けているが、時より、三節のか細い魔法が放たれるだけの空しい抵抗だった。
……そんな、けたたましさが消え去った、終った戦場だからか。
川に沿って続く土手を走って近づく、一台の黒いバイクのエンジン音が嫌に響いた。
黒いバイクを操っているのは、これまた黒いライダースーツを着た人物だ。公道を走っているのだから当然だが、頭にはヘルメットを被っている。
世界樹の麓まで無傷で到達できたのは、主様が一人の人間に構うつもりがなかったからである。
……それが、酷い慢心だった。
バイクを止め、黒いライダーがヘルメットを脱いだ瞬間、静かだった戦場全体がザワつく。
「主様ッ! 御影は未だに健在だ!」
ヘルメットの下から現れたのは、黒いベネチアンマスクで顔の上半分を隠した、男の顔だ。
戦場にいる誰もが、あらぬ方向から出現した御影に驚く。
しかし、地方都市にそびえる世界樹以上に動揺した者はいなかっただろう。葉と葉が擦れ合い、耳障りな輪唱を奏でている。
地上から八百メートル程離れた、世界樹の洞の木の床にも、マスクを付けた生首が転がっていた。生首であるのだから、当然、これは死んでいる。
しかし、黒いバイクで登場した御影は、声を上げられる程に元気だ。つまり、地上の御影は生きている。
空の左の手の平に、なかったはずの金貨が現れた。
では、右の手の平には、いったい、何がある?
「御影ッ! もたもたしていないで、さっさと決着をつけろ!」
そして、生首の御影は言葉を紡ぎだす。
「……深淵よ」
地上の御影に促され、とうとう、口を動かしだす。
「深淵よ。深淵が私を覗き込む時、私もまた深淵を覗き込んでいるのだ」
言葉を全部言い終えた時、黒いマスクは独りでに外れて落ちていく。覗いた顔の上半分は、真っ黒い、深海よりもドス黒い海の底が隠れていた。
異様な事態に、主様は心底驚いた。が、植物の主様が心筋梗塞で死ぬ事はない。
生首から通じている海底から、何か手のようなものが這い出てきた。が、それでショック死する魔王はいない。
ただし、生首の穴を無理やり広げようと次々と手が現れて、境界を掴んで暴れる様子に、魔王の心はとうとう竦み上がった。無様に両脚を震わせているのに、震えているから逃げる事さえままならない。
「――訊いておく。お前の『奇跡の力』で死人は蘇るか?」
生首は流暢に人語を発音するが、ビクビクと震える主様は、たった三文字の返事にさえ手間取る体たらくだ。
「……む、りだッ!」
主様の返事は、海底に堆積する数多の被害者等を憤慨させた。海底の死霊は次々と腕を伸ばして、主様に掴みかかる。
ようやく一歩、足を引きずって下がった主様だったのに、何かが背中にぶつかって、それ以上の後退に失敗する。
主様の背中にぶつかったのは、首を失った御影の胴体だった。
片足で体を支えており、片手に握られたエルフナイフは、主様の背中を深く、深く突き刺してしまっている。
「――なら、死ね。………………『暗殺』発動」
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“『暗殺』、どんな強者でも殺傷せしめるスキル。
対象の心に大きな隙のある場合、攻撃がヒットした際に対象を一撃で仕留しとめられる。
ただし、スキルが発動する確率は対象の心の隙の大きさ、ヒット時のダメージ量、スキル所持者の運に大きく依存する。
スキル発動は攻撃のたびに判定が行われるが、初撃以降は確率が大きく下がるので注意。
人間族が人間族をナイフで闇討ちした際の発動確率は二〇パーセント程度。人間族が一般的なボス級魔族の隙を付いた際の発動確率は一パーセントを下回る。よって、スキルに頼るぐらいなら最初から一撃死可能な攻撃を仕掛ける方が無難である。
スキルの発動条件的に、スキルの対象となるものは心を持つ者に限定される”
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心の隙が大きければ大きい程、『暗殺』スキルは発動し易くなる。
『暗殺』される寸前の主様の心理状態ならば、指先に針を刺しただけでも死んでしまっていた事だろう。
……ようやく、朝の日光が大樹を照らす。
生首の黒い海底の穴は、主様の人間体を飲み込んでから、光が差し込んで霧散した――。
……まだもうちょっとだけ続くんじゃよ