「ドーナツを追いかけて!」 第1話「各々の理由」
ブルアカssシリーズ01 第1話
注意:フブキリ(キリフブ)要素を多分に含みます!!
あらすじ:
「愛してる」って言わせたい!!
生活安全局1年生の中務キリノは、付き合い始めてから2週間も経っているのに、いまだに「愛してる」の一言もないフブキに対して行動を開始する。
一方、合歓垣フブキは数量限定・販売時間限定の「幻のドーナツ」を食べるために、〆切の迫る仕事を急ピッチで片付けていた。
そして、そのころ公安局3年生の尾刃カンナは、副局長のコノカから、とある薬物事案の「おとり捜査」について報告を受けていて……。
各人の思惑が交錯し、事態は混迷を極めていく。
「パニック×ドーナツ」の青春警察小説!!
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ほぼ、初投稿です。
全部で3話くらいをめどにしています。
今後の更新状況は、Twitterにて!
(@Marmelo_Books)
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◇午前9時
◆D. U. 廃車場裏側
薄汚れた場所。D. U. の中でも、管理の行き届いていない暗部。錆びついた鉄屑が道の傍に無造作に積まれ、その合間を通り抜ける風が、わずかに哀れな音を立てている。
黒いスーツに身を包んだ1人の市民が、まるでこの場所に溶け込むかのように立っていた。黒いスーツはわずかに光沢を放っていたが、それは、どこか安っぽく、薄っぺらい質感をただ主張するばかりであった。
背中を、いくつか「売り切れ」の赤いランプが点灯する自販機に預け、男は携帯電話を耳に当てた。
《今日の10時に、あっと驚くような顧客が来る》
電話越しに聞こえてきた声は、慎重さを保ちながらも、その裏に荒々しい響きを孕んでいた。言葉が切り出されるたびに、まるでこちらを試すような不安定なトーンが、静かな廃車場の中に響く。黒いスーツを着た男は無言でそれを聞いていたが、その表情にはわずかな緊張感が滲んだ。
「あっと驚くような顧客?」
と、男は問い返す。声に抑えきれない疑念が混じる。
《そうだ。ヴァルキューレ警察学校の1年生だ。上手くハメたらしい》
その言葉が投げかけられた瞬間、男は目を細め、少しばかり顔を歪めた。電話先の乱暴な笑みが、まるで耳元で響いたかのように感じた。ヴァルキューレの生徒。警察学校の、それも1年生。彼女たちは訓練された若い警察官だ。なぜ、そんな相手が……その詳細は語られていないが、電話越しの声が示す「ハメた」という言葉が、すべてを語っていた。
《ドーナツ、それも『粉末』がどうしても欲しいそうだ。うまい感じにやってくれや》
『粉末』という言葉を聞き、男は顔を顰める。それは、すでに何人もの生徒を弄んできた、とりわけ危険な品物だった。
「ああ……」
男は乾いた声で答えた。チラリと腕時計に目をやると、まだ一時間も残されていた。
《場所は、D. U. 中央区の8番街だ……仔細はまた送る》
そうして、通話は途切れた。
無為な時間を、どこで潰そうか……そう考えて、男は歩みを進めた。
◇午前9時
◆D. U. 中央区 ヴァルキューレ警察学校 学生寮 911号室
午前9時の学生寮。その一室で、中務キリノは幸せな夢の中にいた。頬に触れる春の風のように穏やかで、どこか儚いその夢は、現実を超えた甘美なひとときであった。
「むにゃむにゃ……フブキぃ、ダメですよぉ」
ぼんやりとした意識の中で、目の前に広がるのは、透き通るような青い髪をしたフブキの姿。キリノはその髪を愛おしげに撫でると、無邪気な笑みを浮かべ、ぷにぷにと柔らかな頬にそっと指を伸ばした。フブキのほっぺたは、まるで夢そのもののように儚くも優しく、触れた瞬間、もう一人のフブキがふわりと現れる。
「フブキが……たくさん……!」
ほっぺたをつつくたびに増殖するフブキたち。やがて、部屋の中は幾重にも重なるフブキの姿で埋め尽くされていった。それぞれのフブキが微笑みかけ、キリノを優しく受け入れてくれる。
キリノはその無数のフブキの中のひとりをギュッと抱きしめた。温かい感触が、胸の奥に広がっていく。
「フブキ……愛してますよ」
キリノの囁きは、空気に溶け込み、夢の世界に広がっていく。すると、抱きしめたフブキは恥ずかしそうに頬を染め、静かにキリノの胸に顔を埋めた。触れた瞬間、時間が静かに止まったように感じられた。その一瞬が永遠に続いて欲しいと、キリノは願った。
そして、フブキがそっと顔を上げて、キリノの耳元に口を寄せる。
「キリノ——私も、あいし——」
しかし、その幸福な夢は、遠くから聞こえてきたアラームの音に引き裂かれた。それは、最初はどこか遠くで鳴っているだけだったのが、徐々に現実の輪郭を伴い、キリノの意識を強引に引き戻す。
ハッとして目を覚ます。
「夢……」
呟きながら、上半身を起こす。ベッド脇にあるスマートフォンを手に取り、鳴り響くアラームを止めた。先程まで感じていた夢の中の温もりが、急速に消えていく。それはあまりに鮮明だったが、今となっては、ただの幻だった。
キリノは、夢の名残が残す微かな喪失感と、ぼんやりとした寂しさに包まれていた。あの温かな夢の世界と、現実の冷えた空気との落差が、胸の奥で静かに疼く。
キリノは、一度起こした上半身を、もう一度ベッドに沈めるようにぽすんと横たえた。
「フブキ……」
その名を口にすると、さらに現実が押し寄せてくる。
そうだ、フブキと付き合い始めて、もう2週間が経っていた。初めてのデート、仕事を共にする時間、そうしたひとつひとつの思い出を、大切に思い返す。
「……フブキ」
だが、昨日から2人のシフトが変わり、フブキは早朝から、キリノは昼からの登校となった。
そのせいだろうか、夢の中ではフブキがあんなにも身近で、現実よりも鮮やかに感じられたのに、今は彼女が遠く感じられる。
静かに目を閉じ、再び現実の喧騒に足を踏み出す前の、ほんの一瞬の逃避を楽しむ——。
キリノはしばらくベッドでゴロゴロしたのち、起きる決意をした。
本当なら12時に登校すればいいので、まだかなり余裕があった。でも、それだとフブキに会えない。だから、早めに行こうと思ったのだ。
シフトが合わない週があったとしても、自分から動けばフブキに会える。
そう考えると、自然に体が動いた。
「えっと——」キリノはスマートフォンを手に取り、モモトークのアプリを開いた。
『フブキ! 今日は早めに総本部に行きますからね!』
フブキにメッセージを送り終えると、キリノはどこか高揚した気持ちで、支度を始めた。
今日は早く行ってフブキに会おう。そして、夢の続きを——「愛してる」って言わせよう!
キリノは、そう決意した。
◇午前9時
◆D. U. 総本部一階 生活安全局
朝の9時。ヴァルキューレ警察学校 D.U. 総本部の一階。「生活安全局」というプラカードが掲げられた一角。通常シフトの生徒たちが登校してくる賑やかな空間に、フブキの姿があった。
だが、彼女の姿は普段とは少し違った。
彼女はいつもと同じデスクに座りながら、ひたすらにパソコンのキーボードを叩いている。クリック音とタイピング音が、静かに、しかしどこか切迫したリズムで響く。
正直、フブキがこんなに忙しそうにしている姿は、生活安全局でもほとんど見られない光景だった。彼女の同僚たちも、一瞬「おや?」と目を見張り、しかしすぐに自分たちの業務に戻っていく。
そう、フブキは珍しく、急ピッチで仕事に追われていたのだ。
ヴァルキューレ新入生募集の広報誌に載せるメッセージを取りまとめ、広報課に送る仕事。それが、フブキの任務だった。
「油断しすぎた……」
フブキは心中で苦笑いを浮かべ、指を走らせる。
自分が取りまとめ役だからといって、他の生徒の原稿をファイルに入れ、何もせずに「後でやればいいや」と思っていた結果がこれだ。提出期限は今日の12時、さらに自分自身のメッセージもまだ書いていなかった。慌てたように指先で画面をスクロールし、テキストを打ち込む彼女の顔は普段より少し青ざめていた。
(まずい、まずいまずいまずい……!)
生活安全局内の原稿をなんとかまとめ上げ、ようやく自分の真っ白な原稿に向き合う時が来た。
フブキの心には焦燥感が渦巻いていた。
締切まで、後三時間……自分の原稿を書くだけなら焦る必要もないように思えるが、フブキが焦るのは、全く別の事情によるものだった。
(売り切れる……! 販売時間限定、数量限定の「幻のドーナツ」が!)
心の中で叫びながら、フブキは手帳にメモしてあった、販売予定を見返す。
D. U. 中央区8番街の路上で、時間は10時から12時まで。
ここから自転車に乗って行けば、そう遠くない場所だ……フブキは一度落ち着くために、目を閉じて、深呼吸をする。
「よし、落ち着いて書いて、さっさとだしちゃおうか」
フブキは、再び自分の原稿に向き合う。
◇午前9時10分
◆総本部4階 公安局
公安局のオフィスは、朝の厳粛な雰囲気に包まれていた。静かな空気の中、9時に登校してきた生徒がコーヒーマシンの前であくびをかみ殺し、豆を砕く機械の音をぼんやりと聞いている。
その一方で、公安局の壁際に設置されている大型のレーザープリンターも規則的に稼働しており、その機械音がオフィス全体に響いていた。
それは、ヴァルキューレ警察学校の歴史を物語るかのように、年季を感じさせる代物だった。いつも少し音が大きすぎるそれは、一度動き始めると、耳の奥に響く機械音を立てながら、印刷物を吐き出していく。紙が送られる音や、機械内部のカチカチとしたリズムが、公安局の静寂の中で大きく目立つ。
頻繁に紙詰まりを起こし、その度に誰かが苛立ちながら対応しているが、それでもこのプリンターは現役の、公安局の一員だった。
そんな大型機械を尻目に、夜シフトを終えた生徒たちは、通常シフトの生徒たちと入れ替わるように、荷物をまとめて寮に戻っていく。
そして、その光景を一番奥のデスクで眺めているのは、ヴァルキューレ警察学校3年生であり、公安局局長の尾刃カンナだった。
カンナの右手には、白地に肉球のマークが描かれた大きめのマグカップがあった。デザインの可愛らしさに反して、中には濃いブラックコーヒーが注がれている。蒸気がゆっくりと立ち上る。そして、その香りを楽しむ。
カンナはコーヒーを一口、また一口と飲む。彼女は、気を緩めていた。
一度、今日という日が本格的に動き出せば、カンナに休む暇などない。
だからこそ、この朝のひとときだけが、ぼんやりと考え事をすることができる貴重な時間だった。公安局という場所で、穏やかな深みのあるコーヒーの香りとともに、今日が始まる。
この瞬間こそが、カンナにとって、最初で最後の静けさであり、1日の喧騒の中に消えていく前のささやかな一服の時間だった。
「姉御、引き継ぎいいっすか」
不意に声をかけられ、カンナは顔を向けた。そこに立っていたのは、胸元まで緩く伸ばした銀髪に、青いアロハシャツ、黒いネクタイを緩く締めた生徒がいた。
一風変わったその服装は、彼女の自由奔放な性格をよく表していた。一応のフォーマルさを保つために、ネクタイこそ締めているが、その姿がむしろ、肩肘張らない雰囲気を強調している。
「コノカ副局長……もう帰っていたものだと」
「まさか。あたしが姉御に挨拶もしないで帰るとか、ありえないじゃないっすか!」
「いや、頻繁にあるだろう」
あはは、とコノカは笑う。
今週のコノカは夜シフトだった。夜のD. U. は、決して穏やかな場所ではない。善良な生徒たちが眠りについている一方で、深夜に騒ぎを起こす自分勝手な不良、人目のつかない時間帯に活動する指名手配犯、そして、どうにか法を犯して利益を得ようと目論む犯罪組織が、治安を脅かしていた。
コノカは、公安局の副局長として、深夜に上がってくる様々な報告を処理する仕事を任されていた。(もっとも、本人が現場に「行きたがる」ため、事務処理は部下の生徒たちが行うことがほとんどだが……)
そのコノカが、カンナに直々に報告したいことがあるという。
「例の『ドーナツ』の件、情報をつかんだっす……今日10時に、現れます」
コノカの目は鋭く、カンナを真剣に見据えていた。心なしか、オフィス全体の空気も引き締まる。
「『おとり』に引っかかったか」
「ええ、公安局の中でも、とびきり小さいヤツを、まだ意志の弱い1年生だと偽装して、情報を掴ませたんっすよ」
オフィスの端の方から、「コノカ副局長、小さいってのは余計ですよ!」と訴えが上がり、オフィスの面々から笑い声が漏れる。「うるせぇやい!」と、コノカも応戦する。そのやりとりにカンナも思わず口角が上がってしまい、誤魔化すようにコーヒーに口をつける。
「それで、副局長。詳細は」
「場所は、D. U. 8番街……といっても、まだ詳細は送られて来ていないっす。時間は10時。おそらく相手も警戒しているっすから、まだ張り込みはさせてないっす。不審な車があれば、その時点で取引が中止になる可能性もあるっすからね」
「ああ、それでいい」
カンナは、手帳を開き、コノカからの情報を走り書きする。
公安局は現在、「ドーナツ」と呼ばれる違法薬物の売人を追っていた。
化学合成された精神刺激薬の粉末をドーナツの生地に混ぜ込み、「幻惑のドーナツ」と称して売りつける。食した者は皆、脳内神経伝達物質の放出が促進されることによる多幸感の増大を感じ、薬の効果が切れた後に急激な感情の変化や抑鬱状態に陥る。そして、その後も「ドーナツ」の中毒者となり、求め続け……そして、薬の「粉末」そのものを求めるようになる。
数週間前から、このような事案を確認していた連邦生徒会は、防衛室を通してヴァルキューレ公安局に、一連の事案の調査を命令した。そして今、公安局はようやっと売人に接触できるチャンスを得たのだ。
カンナは、どこかはやる気持ちを抑えるために、再びマグカップを手に取る。その時だった。カンナの目の前に、小さく切り取られたコピー用紙が差し出されたのは。
「……ん?」
カンナはその差出人……コノカを見上げる。コノカはバツが悪そうな顔をし、その目は泳いでいた。
「なんだ、これは」
カンナは聞く。コノカは思い切り頭を下げる。
「遅れてしまい、ごめんなさい!」
その言葉を聞き、カンナもやっと理解した。
「はぁ……提出物はさっさと出すように言っているだろう!」
一喝。コノカはさらに頭を下げつつ、両手で原稿の紙片をカンナに差し出す。カンナはそれを受け取り、指定のファイルに挟み込む。
新入生募集のパンフレット。公安局でまだ原稿を出していないのはコノカだけだったのだ。
今日も、長い1日が始まる。
◇午前9時30分
◆D. U. 総本部一階 生活安全局
生活安全局の扉の前。キリノはどこかむすっとした表情で、そこに立っていた。右手に持っているのはスマートフォン。画面をじっと見つめる。
20分前にフブキにモモトークを送ってから、返信どころか既読すらついていなかった。
『フブキ! 今日は早めに総本部に行きますからね!』
と、朝に送った文だけが、寂しそうにトーク画面に存在していた。
そして、これは普段ならあり得ないことでもあった。というのも、フブキは勤務中でも大抵5分以内に返信をする。少なくとも、既読だけはつける。決して未読スルーはしないのだ。
「もう」
軽く、呟いて頬を膨らませる。別に怒っているわけではなかった。だが、寂しさに耐えかねて、寮を飛び出してきたキリノにとっては、フブキに対して少しばかり文句を言いたい気持ちだった。それに、いつもなら必ずすぐに反応してくれるフブキが、今日はなぜか音沙汰がない。それが気にかかって仕方ないというのも事実だ。
キリノが生活安全局のオフィスのドアを開けると、そこにはいつも通りの光景が広がっていた。各デスクで生徒たちがキーボードを叩き、業務に集中している。局内に響く、規則的なタイピング音や、電話の着信音が、日常の喧騒を物語っていた。
だが、キリノの歩みは自然と一箇所に向かっていた。彼女の目は、フブキのデスクを捉える。
「あれ、いないのですね」
いつもそこにいるはずのフブキが、今日はなぜか姿を見せていないことに、何か違和感を覚えた。
「珍しい……」
キリノは思わず小さく呟く。そして、すぐにフブキのデスクに歩み寄る。
「あれ、キリノちゃんじゃん。今日は早いね? どうしたの?」
突然声をかけられ振り返ると、同じ生活安全局の同期がそこに立っていた。彼女はいつも明るい表情で、他の生徒にもフレンドリーに接するタイプなのだ。
「おはようございます。実は、フブキを探しに……」
キリノは素直に答える。フブキがいないことが気になって、ついここまで来てしまった。
「あー、最近、シフト被ってなかったもんね」
しかし同僚は、すべてをお見通しのように微笑むと、キリノの様子をちらりと見て、ニヤリと笑った。そして、フブキの机の上を指差しながら続ける。
「ほら、フブキちゃん、朝からパソコンと睨めっこしてたと思ったら、スマホ忘れたまま、飛び出していっちゃったのよ。3、4回通知が来てたけど……キリノだよね? ねぇねぇ、どんな内容送ってたの? まさか、愛のメッセ?」
その言葉にキリノの顔は真っ赤になった。
「なっ、単におはようってだけですよ!」
声を上げながら、慌てて弁解する。
思えば、キリノとフブキが付き合い始めたことを、一番に勘付いたのも、この同僚だった。
彼女は、そういえば、と思い出したかのように一枚の紙をキリノに見せる。折り込みチラシのようなものだった。キリノは、書かれている文字を目で追いかける。
『販売時間限定! 数量限定! トリニティの名パティシエが考案の「幻のドーナツ」をD. U. で移動販売!』
どうやら、ドーナツの移動販売のチラシのようだった。チラシの右下にはSNSへのQRコードが貼られ、写真などもみることができるみたいだ。
同僚は言う。
「ねぇね、キリノちゃん。フブキちゃん、絶対これを買いに行ったんじゃない? ほら、あの子ドーナツ大好きだしさ」
キリノは、呆れたようにため息をついて言う。
「はぁ、きっとそうですね。というか、絶対そうですね……」
「でも、スマホとチラシ忘れちゃってるけど、大丈夫なのかな? 多分自転車だと思うんだけど」
流石に慌てすぎだととキリノは思ったが、まあフブキにもそういう日があるのでしょう、と日頃の自分の行いを省みてそう思った。
「じゃあ、わかりました……」
キリノは続ける。
「フブキを追いかけて、スマホを届けます! ついでに、限定のドーナツも食べます!」
そして、「愛してる」って言わせます!——もちろん、最後のは口にださなかったが、キリノは自分の心が燃え上がるのを感じた。
そう、これは任務なのだ。自分で自分に課す、人生をより楽しむための任務なのだ。
◇午前9時40分
◆D. U. 総本部一階 生活安全局
カンナは、公安局の原稿の入ったファイルを持って、生活安全局のオフィスに来ていた。扉の前に立ち、ファイルの中身を確認する。宛先は、生活安全局の合歓垣フブキだ。
本当はコノカに任せても良かったが、仮にも公安局が原稿の不備などで他の局に迷惑をかける訳にはいかない。他の局への提出物は大事だ。
簡単なチェックを終え、扉に手をかけようとした瞬間、向こうからガチャリと音を立てて開かれた。予期せぬ動きに少しだけ驚いたが、すぐに冷静さを取り戻す。
扉の向こうにいたのは、中務キリノだった。勢いよく出てきたため、彼女もカンナに気がついて軽く声を上げた。
「あ、すみません! カンナ局長!」
カンナは軽く手を振り、気にしていないと伝える。
「いや、別にいい……パトロールか?」
キリノは頷くと、背筋を伸ばして答えた。
「はい! 今からすぐに向かいます!」
その両目には決意のようなものが宿っていた。まるで、自らの使命を宣言するかのような勢いだ。
ただのパトロールで……と一瞬そんな考えが頭をよぎったが、すぐに振り払った。パトロールさえ真面目にできない者に、ヴァルキューレは務まらない。
「そうか、なら、さっさと行け」
キリノは敬礼し、勢いよく飛び出していった。
それを見送ると、カンナは生活安全局のオフィスに入った。
その瞬間、局員たちは一斉に動きを止め、カンナに対して敬礼を取ろうと起立するものもいたが、カンナはすぐに片手を軽く上げて制止した。
「そのままでいい、続けろ」
局員たちはその言葉に従い、再び業務に戻る。
カンナはオフィス内を見渡し、原稿の提出先である合歓垣フブキのデスクを探す。彼女に渡すべきファイルを手に持ちながら、デスクを歩き回っていたが、フブキの姿は見当たらなかった。
「すまない、合歓垣フブキのデスクを探しているのだが……」
カンナが近くにいた生活安全局員に尋ねると、彼女は慌てて答えた。
「あ、カンナ局長! すみません、フブキは今、少し席を外しているみたいで……」
「そうか、原稿ファイルの取りまとめ役だと聞いていたが……」
カンナは軽く息をつく。
「あ、それなら私が広報課の方に渡しておきますよ!」
局員がすかさず申し出る。カンナは少しの間彼女を見つめると、ファイルを手渡した。
「そうか、すまない」
「いえいえ、局長が謝ることなんかじゃないですよ! 元はといえば、フブキがドーナツを追いかけていったのが——」
その瞬間、カンナの表情が一変した。瞳が一瞬、鋭く光り、顔の筋肉がぴくりと反応する。局員はその変化に気づき、はっとしたように口元を押さえた。
「あ、その……カンナ局長?」
「ドーナツ、と言ったか?」
カンナの声は低く、重い緊張感を帯びていた。その言葉には、凄みがあった。局員はまるで咎められたかのように、慌てて頷く。
「は、はい! フブキが、なんか10時ごろから『まぼろし……のドーナツ』? を買いに行くって急いで、慌てて外へ飛び出して行きました!!」
その言葉がカンナの中でこだまする。先ほど、コノカが言っていたことが脳裏でリフレインする。
『例の「ドーナツ」の件、情報をつかんだっす……今日10時に、現れます』
カンナは瞬間、くらっときた。血の気が引くのを感じた。まさか、計算されたおとり捜査のつもりが、本当に局員を巻き込むような事態になるとは考えもしなかった。
(今追いかければ——まだ間に合うはずだ!)
「あの……バカ!」
カンナは心の中で叫んだが、もしかしたら声に出してしまっていたかもしれない。
焦燥感に駆られ、ファイルを乱暴に託すと、迷わずオフィスを飛び出した。
残された局員たちは皆、驚きの表情を浮かべたまま、呆然とカンナの姿を見送った。