線路を堂々と歩いた昭和の人々
2017年、著名人ふたりがSNSに線路内の写真を投稿したことをきっかけに、鉄道営業法違反の疑いで書類送検された。許可なく線路に立ち入る行為は、緊急時を除いて原則として禁じられている。
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一方、昭和の時代には鉄道ストライキで電車が止まった日に、人々が線路内を歩き、職場や学校へ向かう姿があった。その行為は当時、黙認されていた。
今では考えられないその光景は、いったいいつまで現実だったのだろうか。
国鉄の特異性とストライキの定義
ストライキは、労働者が賃金や労働条件の改善を求めて業務を停止する行為で、日本国憲法第28条により保障されている。目立った事例としては、2004(平成16)年に日本プロ野球選手会が球団数削減と1リーグ制への移行に反対し、ストライキを実施したケースがある。
鉄道運営者による典型的なストライキは、列車の運行を止めることだ。日本の鉄道業界では労働組合の力が強く、とくに国鉄では春闘時に賃上げや労働環境を巡って激しく対立した。労働者側が「電車を止める」事態に発展することも少なくなかった。
ただし、法的には国鉄職員のストライキは原則として違法とされていた。当時の国鉄は公共企業体であり、職員には「公共企業体等労働関係法」によって労働基本権、特に争議権が制限されていたからだ。
こうした複雑な構造を抱えながらも、現実には「ストで電車が止まる」「人が線路を歩く」といった事態がたびたび発生していた。
社会が止まった日──60~70年代の国鉄スト
鉄道ストライキ、特に国鉄による全国規模のストは、日常の移動手段を奪い、社会機能を一時的に麻痺させた。スト当日、駅には「本日はストライキのため、列車は全線運休します」といった貼り紙が掲示され、改札は封鎖された。都市部では混乱のなか、通勤客や学生の一部がホームに入り込んだり、踏切から線路に立ち入ったりして、そのまま線路を歩いて職場や学校へ向かった。
1966(昭和41)年4月には、国労(国鉄労働組合)と私鉄の労組が共闘し、全国一斉の統一ストライキを実施した。このときは鉄道が全面的に停止し、レール沿いを徒歩で進む人々の姿が記録に残っている。
1973年4月には、国労を中心とした乗務員が、法令や社内規則を厳密に守って業務を行う戦術、いわゆる順法闘争(遵法闘争)を展開した。普段は省略されがちな確認作業や信号待ちをすべて規則通りに行った結果、首都圏のダイヤは大きく乱れ、一部では運休も発生。混乱のなか、線路を歩く通勤・通学客の姿も確認された。
1975年11月に実施された「国鉄スト権スト」は、戦後最大級の政治的ストライキだった。国労は、公共企業体に禁じられていた争議権の法的承認、いわゆる「スト権」を求め、全国規模で72時間の全面ストを決行。20万人以上が参加し、鉄道網は全国的に麻痺した。その影響で、通勤手段を失った人々が枕木や砕石(バラスト)の上を歩く姿が新聞やテレビで大きく報道され、昭和史の1ページとなった。
なお、線路を歩く行為は旧・鉄道営業法(現・鉄道事業法)で形式的に禁止されていた。ただし、大規模ストによる混乱下では、国鉄や警察が積極的に取り締まることは少なかった。当時のメディアもこうした光景を当然のものとして伝えており、問題視する報道はほとんどなかった。
国鉄民営化で状況が変わる
「線路を人が歩く」光景が見られなくなった背景には、
・労働組合の弱体化
・社会情勢の変化
がある。かつて鉄道の全面運休をともなうストライキが実現できたのは、国鉄に強力な労働組合が存在していたからだ。当時、国鉄職員の大多数は国労や動労(国鉄動力車労働組合)に所属しており、これらの組合には運行停止をともなうストを打てるだけの動員力があった。
だが、1980(昭和55)年に「国鉄再建法」が成立すると、状況は大きく変わる。1987年には国鉄が分割・民営化され、組織はJR各社に再編された。それとともに国労は急速に力を失い、2010年代には組合員が1万人を下回った。その後も減少傾向に歯止めはかかっていない。動労も民営化で分裂し、多くの組合員がJR連合(JR総連)へ移行した。一部は動労千葉(国鉄千葉動力車労働組合)のように地域単位で残ったが、全国規模の統一ストを実行できる体制は崩れた。
なお、国鉄民営化に際し、労組側は抗議行動やストの通告を検討したが、実際に運休をともなうストは行われなかった。ただし、1985年11月に動労千葉が分割民営化に反対してストを決行。これが「第一波スト」と呼ばれた。そして1986年2月15日には「第二波スト」が実施され、これが国鉄として確認されている最後の大規模ストライキとなった。
民営化後のJR各社では、雇用形態の多様化が進み、労働者の利害を一本化しにくくなった。法的にはJRは民間企業となったため、国鉄時代に制限されていた争議権は形式的に回復された。しかし企業側も内部統制を強化し、ストを未然に防ぐ体制を整えた。さらに、1985年の動労千葉によるストに対する世論や政府の強い批判が、その後のストを困難にする空気を作った。この傾向はJRだけでなく私鉄にも広がり、「電車を止めるスト」は法的に可能であっても、実際にはほとんど実施されなくなった。
結果として、1975年の「国鉄スト権スト」以降、ストによって人々が線路を歩くという象徴的な光景が、大きく報じられることはなくなった。
平成以降、誰も線路を歩かなくなった時代に
平成期以降、鉄道ストライキやそれに準じる行動は、きわめて珍しいものになった。
●2005年:動労千葉による「安全運転闘争」
これはストライキではなく、遵法闘争(順法闘争)の一種として行われた。法令や社内規定を厳格に順守しながら運転を行い、列車の遅延を引き起こした。ダイヤに一部影響は出たが、運休には至らなかった。
●2006年:JR西労組(JR西日本労働組合)のストライキ
労使交渉が決裂し、27拠点で12時間限定のストライキを実施。参加者は135人にとどまり、運転士やダイヤ編成担当の参加も少なかったため、列車運行への影響はごく軽微だった。平成以降に実施された、数少ない鉄道ストの例である。
●2018年:JR東労組(東日本旅客鉄道労働組合)のスト通告
結成以来初のストライキ通告が出されたが、直前で交渉が妥結され、実際にはストは行われなかった。
いずれのケースも通告や実施には至ったが、列車の全面運休にまでは発展しなかった。昭和期に見られたような、全国規模の混乱をともなうストライキは、平成以降一度も確認されていない。
ちなみに日本とは異なり、今なお公共交通のストが頻発している国もある。たとえばフランスでは、数日間に及ぶ鉄道ストも珍しくない。フランス革命以来の
・労働運動の伝統
・強力な労働組合
・ストを保護する法制度
が背景にある。社会全体も、こうしたストを日常的な出来事として容認している。
昭和の日本で「ストで電車が止まる」「線路を人が歩く」という現象が成立したのは、労働運動がもたらす社会的影響を世の中が受け入れていた空気があったからだ。ある意味では、当時の日本もフランスに似ていたのかもしれない。
しかし、時代は変わった。もし同規模のストが2020年代に起きたとしても、在宅勤務やオンライン授業といったリモート対応が普及した現代では、人々が線路を歩いて移動するようなことは起きないだろう。今や、地震や事故など非常時を除けば、線路を歩く人の姿を見ることはない。「ストで電車が止まる」「線路を人が歩く」といった風景は、すでに昭和という過ぎ去った時代の幻になりつつある。(ミゾロギ・ダイスケ(懐古系ライター))
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