20
煉瓦の街は色を変える。
「遅いぞ。」
「ごめん、授業長引いちゃって。」
慌しくタブリエを巻いて、蝶ネクタイをつけ、
ベストを羽織り、鏡でチェック。
トレイ片手に、テーブルを回る。
馴染みの客や観光客を、すり抜けながら。
オーダーをとって、料理を運ぶ。
チケットを置いたら、空いたテーブルを拭く。
チップをポケットに投げこむ。
夜風がテラス席に緩やかに漂う。
パリが一番パリらしい季節。
ひやりとした香りが、微かに鼻腔を擽り、
石畳を渡るざわめきさえも、人恋しくなる。
街はセピアに染まってゆく。
穏やかな風に弄られると、想いが戻ることがある。
あの潮の香が、なぜか懐かしい。
あれからパリを出ていない。
あれほどに心で荒れ狂った波は、今は静かな凪ぎとなり、
俺はこの街の雑踏で、穏やかに暮らしている。
時折フラッシュバックのように、蘇るそれは、
今では遠い出来事のようで、現実との境すら曖昧だ。
それでもあの浜辺に彼が立ち。
エレベーターホールで崩れるように笑い
そんな彼の瞳はこびりつく。
あの寂寞の瞳は、運命のように脳裏に刻まれて離れない。
嵐の夜の聖堂は、記憶の歪んだ霧の中にあるようで。
ユウヒの微笑み、俺の飲み込んだ言葉。
今となってはそれがよかった事のか、わからない。
しかし、あの眼差しで全て彼はわかってしまったのかもしれない。
どうしようもない、彼との交錯しない道が見えてしまったのかもしれない。
俺たちにユウヒの選択を、止める資格などありはしなかった。
人生は個人が選択していくものだから。
それを受け入れるかは否かは別として。
だが大多数の俺たちは、苦い想いを噛み締めながら、
いつしかその選択を妥協し受け入れる。
それが相手にできうる最大の敬意なのだから。
切なさや寂しさを、恐らく胸に引き受け、
そして生きていくのだろう、あの人も。
そして、俺も。
店は軽いディナーをとる客で賑わいだす。
声高に議論する人。
通りを眺め思索する人。
カフェの傍ら本を読む人。
其々が、其々の楽しみや悲しみに耽る。
時折すれ違い、通り過ぎたりぶつかったり、
カフェはホテルとそんなとこが似ているのかもしれない。
だから、俺はここで働いているのかな。
「タニ、テラスに客。」
「あ、すみません。」
俺は急いでオーダーを取りにいく。
「何に、いたしましょう。」
「そうだな・・・・」
それは聞き覚えのある、声。
忘れようとしても、どうしても頭の片隅にこびりついた。
独特のハスキーな心地よい、低音。
俺は思わず頭を上げる。
薄く色の入ったサングラスをリカは外した。
「あ・・・んた?」
「おいおい、俺は客だぞ。」
そしてにやりと口の端が上がる。
「牡蠣と白ワイン、銘柄は任せる。」
胸の血は、いきなり頭に逆流したように。
ざわついた店内を俺はすり抜ける。
ぐるぐると、頭が過去に戻ってゆく。
蘇ったアントワーヌ。
想いと共に自らの終止符を打ったユウヒ。
取り残された俺たちは、あれから互いに会うこともなく。
なのに、声音まで覚えていた。
それほどに心に残っていた。
それはどこか、同じ想いを引きずっていたから。
きっと同じ悪夢に、苛まれていたから。
「どうぞ。」
初物の牡蠣と白ワインをテーブルに。
隅のチェックの上に、無造作に札が投げられる。
「俺からのチップは、受け取れないか?」
悪戯のような口調で、彼が言う。
ワインで湿らせた唇が、艶めいてる。
だけど瞳は、真っ直ぐ据えられて。
俺の覚えているそれよりも、遥かに強い。
「いえ、ありがとうございます。」
俺は軽く会釈を返し、札をポケットに入れる。
戻ろうとすると、声がかけられた。
「今日は、何時に上がる?」
俺はゆっくりと振り向いて、彼を見つめる。
瞳は真っ直ぐなまま、口元の笑みが消えている。
あの浜辺の、寄る辺無い表情にどこか似ていた。
あの写真の面影が、微かに漂う眼差し。
「ん・・・と、あと二時間位。」
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