17
パソコンを立ち上げる。
待ちわびた、Nemesisのメール。
一読し削除して、電源を落とす。
星の無い夜を、ボートは滑る。
夜光虫が時折波間に、銀の波を織る。
島影がようやくぼんやりと浮かんでくる。
マッジアーノ島の廃れたビエヴェスタ修道院。
騎士の石像の下。
ドン・ファンに天罰が下されるというわけか。
悪ふざけもいいところの趣向だが、俺はのってみる。
なぜこれほどに胸がざわめくのか、それを見極める為に。
何年も人の手が入っていない石造りのそれは。
舞台効果としてはなかなかのものだ。
風化しかけたレリーフを辿り、騎士の石像に行き着く。
聞こえるのは波の音。
そして強まる風の音。
「お客様の到着だ。
最後の晩餐へのご招待、有難く受けにきたぞ。」
思いもかけぬ程、滑らかに口が動く。
まるで、楽しんででもいるかのように。
「そろそろ姿を現したらどうなんだ?」
正面の扉が軋み、過去からのシルエットが浮かびあがる。
「お前は・・・・」
それは、あの服だ。
俺が送った、あの遠い日の。
そして栗色のゆるやかな巻き毛。
「ア・・ントワー・・・・・」
ゆっくりと向き直る、琥珀の瞳。
思い出のなかの彼よりも、はるかに強い光を込めた瞳。
そして、リボルヴァーの照準は俺の胸に。
「誰なんだ、お前は。」
風音が強くなる。
雨の匂いが混ざる。
「出身はベルギー、ブリュッセルの近く。」
瞳は固く俺に据えられたまま。
「栗色の髪と琥珀の瞳は、母親譲りだよ。」
思い出すように唇を舐める。
「7つ違いの兄がいた。
俺の田舎なんかで、ソルボンヌに進み期待の星だったよ。」
まわりだす世界、崩れてゆく記憶の壁
なのに俺はもう既に知っていたかのように聞いている。
「たまに帰ってきた時に、目がきらきらしてた。
すっごく充実して、楽しいって、
幾度も俺に話してた。」
「で・・・・」
知りすぎた結末を、俺は自嘲の念を込めて尋ねる。
「そして急に荒れだした。
ヤバい連中と付き合いだしたり、
帰ってきても一日中誰とも口も聞かなかったり。」
銃口が震えだ。
「俺がパリに遊びに行ったとき、
部屋で・・・・見たんだ。」
「何を?」
「あんたの絵が大事に飾ってあった。
そして一度も袖を通さないままのこの服も。」
「で、復讐か。
兄さんを破滅させた男への。」
「アントワーヌは俺の憧れだったよ。
優しくて優秀で、大人で。」
「俺を殺すのか?」
皮肉な笑みが口の端に浮かぶ。
「お前も地獄の苦しみを味わうべきだろう。
あれから兄さんがどれほど苦しんだか。
田舎に帰ってきてからのアントワーヌはまるで別人みたいに・・・・」
もう、何度も考えたはずなのに、
それでも俺は尋ねてしまう。
それほどに彼は俺に囚われていた。
「一つだけ聞きたい・・・・・・
アントワーヌの最期のこと。」
「あれは事故だ!
自殺なんかじゃない!
酔っ払いの車がぶつかってきた、ただそれだけだ。」
震える唇で叫ぶように、タニは言う。
俺はそんな彼から目が逸らせない。
「自殺じゃないかって、無責任な噂もながれたさ。
でもアントワーヌはそんなことする人間じゃない。」
雨音が、聞こえてくる。
「貴様がアントワーヌの人生を滅茶苦茶にしたんだ。
どうして、兄さんを。
どうして、あんな・・・・」
彼の言葉が詰まり、手が震える。
溢れる涙の中、俺が浮かぶ。
「俺はアントワーヌを捨てた。
ただ、それだけだ。」
タニの身体が、びくりと震える。
「貴様が憎い。
八つ裂きにしてやりたい。」
感情を席巻する憎しみに、身悶える姿。
まざまざと蘇る、アントワーヌ。
彼にこれほどの情熱があったなら、
いや、俺達にこれほどの情熱があったなら、
あの時、違う道が見つかっていたのかもしれない。
もう取り返しのつかないあの時が、初めてまざまざと蘇る。
振り切っても振り切れない悪夢に向かい、俺は足を進める。
「さあ復讐するなら、しろ。
喜んで地獄に落ちてやる。」
琥珀の瞳は大きく見開かれる。
そして目を眇め、震える手で。
照準を合わせようと。
「手が震えてるぞ、大丈夫か?」
「近寄るな!
本当に殺すぞ!!」
彼の手に手を重ねる。
滑らかな頬に、涙が幾筋も伝う。
こんな、美しいものに、
こんな、切ないものに、
引き金をひく必要などありはしない。
その役目は俺。
たとえそれが、この悪夢から逃げ出す為の方策だとしても。
銃をもぎ取る。
「自分の命くらい、自分で始末できる。」
こめかみに、銃口の重さを感じる。
「そこまでだ、リカ。」
回廊の影から、ユウヒが入ってくる。
「タニは、まだ一番肝心の答えが聞けてないだろう。」
雨音は激しさを増す。
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