10.
「よくあることだ。違うか?」
リカが口の端を上げて、投げ捨てる。
差出人名のないホテルの封筒。
ありがちなタイプの文字。
「まあな。」
リカの元へ届いた、一通のブラック・メイル。
女絡みのトラブルは、今にはじまったことじゃない。
寝取られたと思い込んだ男から、寝取ったと思った女まで、
それはへつらいだったり脅しだったり、
様々な形をとって顕れる。
「まあ、なかなかに詩的なのは認めよう。」
時計で時間を確認する。
「アバンチュールってのは、スリリングなもんだろう。
なあ、ユウヒ?」
そう言って笑いながら、リカは女を待たせた部屋へ。
俺は絵の下に取り残されたような気分になる。
パトリシアはあれから、やっきになって昔の男とよりを戻しているようだ。
誇り高いローサは部屋に篭ったきり、
マネージャーに当り散らしているらしい。
カトリーヌの後ろにはあいも変わらず、胡散臭いボディ・ガード。
候補者はひきもきらず。
だがそのなかの誰とも、違うようにも思える。
リカの投げ捨てた便箋を取って、目を細めて眺める。
その字面にもかかわらず、妙に理性的に感じるのは俺の気のせいか。
恋に狂った感情の爆発というよりは、
遥かに鬱積し凍りついた思いが込められているような。
凍りついた思い、誰にでもあるってもんじゃない。
思いもかけず垣間見てしまった、自分の感情に俺は舌打ちする。
俺が望み続けて、遂には手にはできないであろうもの。
そしてそれを封じ込めてしまったこと。
リカと俺の持ちつづけている関係は、支えあっているのか、
それとも触れたさきから腐っているのか。
どちらにしてもグロテスクなことには、変わりない。
どっぷりつかってしまった泥沼で、それでも俺は夢に見ることがある。
職人ではなく、芸術家となる明日を。
そしてよけいに足を取られ、傍らのあいつに縋りつく。
夜、眠りにつけないのは、あいつではなく俺なのかもしれない。
両の手を組んで、つまらない物思いに入りそうだ。
とっくに諦めたはずの憧憬が、こんな時ふと目を覚ます。
地中海に映る陽はいつしか傾き、刺すようなその鮮やかさに見入る。
痛いほどの輝きに、否応無く引き寄せる抗いがたい力。
あいつのデザインはそんな引力を持っていた。
「カトリーヌはどうした?
「思ったより、ガードが固い。」
苦笑いしつつ、リカが戻ってくる。
「本気で惚れた方が負け、か。」
タイを外して、カウチで伸びをする。
「スリリングなゲームみたいなもんだ。
つまらない人生、楽しんでなにが悪い?」
鼻の先を指で弾きながら、余り面白くなさそうに口を尖らせる。
頬杖などつきながら、ライトの下の紙挟みが目に付いた。
何の気なしに開いてしまったのは、何故なのだろう。
意識の下で鈍い予感はあったのかもしれない。
「このデザイン。」
無言でリカの手が、デザイン画を毟り取る。
「メンズのラインとはな。」
極上の女、その代名詞のドンファンブランド。
メンズラインなど展開する気はないものと思っていた。
すっきりとした高い腰とすらりと伸びた肢体を際立たせるようなスーツ。
品があって上質な、琥珀の瞳に良くあいそうな深いチャコールの色み。
「・・・あいつだな。」
「そういう訳じゃあ、ない。」
目を回すようにして、おどけて紙を放り出す。
「描く気に・・・なったのか ?」
「まさか。
気紛れな落書きだ、ただの。」
こいつのデザインが、もう一度生を持つのならば。
そんな思いで、つい口をついてしまった。
「あの日から、ずっと、描いていない。」
リカの瞳が暗い色を湛えはじめるのに、気付きながらも言葉は止まらない。
「栗色の髪、琥珀色の瞳。
ベルギー訛のフランス語を話す、ソルボンヌの奨学生・・・だったか。」
蘇る記憶に抗うような顔に、刺激されたかのように俺はこいつの腕を取る。
「・・・・ アントワーヌ。」
引き戻そうとする腕を、無理やりに押さえ込む。
逡巡する瞳、後悔と怒りをない交ぜに唇を震わせて。
「彼はもう ・・・・帰ってこない。」
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