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「これ・・」
色褪せた写真を拾う手が、止まる。
粗い粒子の向こうには、かつて観衆を熱狂させたあでやかな微笑み。
華奢な肩からほっそりと伸びる首筋、小さな卵型の輪郭。
処女のそれのような、清らかさを形にしたような。
くっきりと切なげな大きな瞳、艶やかに膨らんだ唇。
危うい均斉を保ちながら、芳醇な女を漂わせる。
「母の、若い頃だ。」
「だろうね、そっくりだもん。」
遠慮がちに、それでも目が吸い寄せられて離れない。
母を見た人々の同じ反応を思い出して、俺は苦笑しながら手を差し出す。
「でも、これは・・・・?」
「ああ、母は昔、スカラ座のプリマだった。」
「へえ。」
控えめに、興味深そうな色が又浮かぶ。
それでも彼は、卑俗な穿鑿とは縁遠い。
俺は珍しく、口が軽くなる。
「・・・・綺麗な、ひとだね。」
「俺とそっくりだぞ。」
皮肉とも冗談とも付かない言葉に、すこし口を尖らせて、
一呼吸置いて彼は写真を返す。
「だけど、綺麗だ。」
「そして中身も、俺と同じかもしれない。」
「え・・・?」
「見境が無かったのさ。」
込められた自嘲の響きに戸惑いの影が差し、そして口を開く。
「男がほっとかないんだよ、こんな魅力的な人ならさ。」
ほんの少し歪められたような、深く引き寄せられるような笑みを浮かべる。
「そういう・・・もんかな。」
手の中には俗悪なまでにきらびやかな衣装を身に纏い、
それでも高雅に美しい母の姿。
舞台を下りてなお、人々の賞賛のなかで演じ続けた奔放。
息子は、それを憎みながらも魅惑され続けた。
思いに沈みそうになる俺に、いきなり言葉が切り込むように。
「あんたがドン・ファンなのは、彼女への ・・・・復讐?」
こんなことを尋ねるにしては、妙に真剣な瞳で。
「別に。
ただ、受け継いだのさ、浮気の血だけを、な。」
吐き捨てるように、俺は言ってみる。
浮き名を流すことは容易いこと。
人と向き合うこととは大違いだ。
だから流れるように、情事へと身を委ねる。
この琥珀の瞳には、そんなこと思いも寄らないだろうがな。
「こういう人をさ、きっと。」
「きっと ?」
「ファム・ファタル、っていうんだろうね。」
挟み続けながら、いつも裏に返したままだった印画紙の女。
「運命の女か。
信じるのか、そんなもの?」
「さあね。
そんな余裕ないよ。」
栗色の髪が、午後の緩い海風になぶられ乱れる。
「余裕?」
「両親は離婚しちまってるし、奨学金もらってバイトしてる。
これでも苦学生なんだぜ、俺。」
肩を竦めるようにして、口の端を上げた。
片側の頬に、皮肉に笑窪が浮かぶ。
「ヴァカンス中のバイトか。
よく雇ってくれたな、あのホテルが。」
「うん、ちょっと知ってたからさ、セルジオさん。」
「どこの大学だ・・・?」
「ソルボンヌ。」
足もとの砂が、ゆるりと渦を巻く。
脚を取られたような揺らぎが俺を襲う。
それはもう、遠い記憶の彼方に封じ込めた。
ヴィスコンティ家と引きかえに葬ったのは、琥珀色の瞳。
「どうかした?」
探るように顔を覗き込まれる。
乱れた前髪、通った鼻筋、
物問いたげな小さな唇。
記憶の底の顔を、なぞったかのような。
「いや・・なんでもない。」
軋むように振り切るように、なんとか口元を動かし続ける
「で、信じてるのか?その運命とやらを。」
「わからない。
でもね、あるといいなとは思うよ、運命。」
「素直だな。」
「でもないよ。
ただね、運命の相手とかってのがいるんなら、
そいつと死ぬまでには、一度会ってみたいとか思うだけ。」
「運命の相手ね・・・・」
何気なく発した一言が、思いもかけぬ重さを持って俺にのしかかる。
唇を指で弾き、遠く海に目を飛ばす。
剥き出しの陽射しは容赦無く、水面に銀に砕け満ちる。
瞳に突き刺さる。
「おんなじ魂をもってるらしいよ、その相手は。」
俺と並んで、海に顔を向けながら呟くように彼が言う。
「ただの幻想かもしれない、訳も無く魅かれあうなんて。」
今度は俺が皮肉に頬を上げる番だ。
「所詮は原初の生殖本能をソフィスティケイトしただけの、
詭弁に過ぎないのかもしれないぞ。」
「それでもね、詭弁かどうか実際に会ってみないと分からないしさ。」
唇を鳴らすようにして、デッキシューズで砂を蹴る。
「分かった時には、もう手遅れってこともあるしな ・・・・ 」
そこで言葉は途切れた。
お互いの言葉の意味を探りとるように、
二人して反射する水面に、目を細める。
「じゃ、俺行くわ。」
「ああ。」
「明日はベルボーイだよ。 ―――ヴィスコンティ様。」
おどけた様に、恭しく腰を折る。
地中海の遠景を背に、すんなりとした身体が遠ざかるのを、
帽子の陰から見送った。
不安定な昂揚感を抱えたまま、俺は又デッキチェアでまどろみに沈み込む。
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