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6.
「昔に戻ったみたい。」
呟きが薄いセピアのランプに溶ける。
イヤリングを床に落とし、俺は昔の女を抱いて。
戻る昔など初めから無かった事に、気が付かないふりをする。
愛してるとか、そんな囁きを聞いたような気もする。
だけどそれは、昔日のハリウッドへの追憶に過ぎない。
「じゃあ、帰るわ。」
ほつれた後れ毛を整えながら、女優が言う。
「その前に、なにか飲みたいわね。」
「なにがいい?」
「ええと、シャンパン・・・・あなたのと再会を祝って。」
「持ってこさせよう。」
バーに置いてあるボトルには気付かないふりで、ベルに電話を回す。
「はい、ヴィスコンティ様。」
思った通りの微かな訛を匂わせる声音が、受話器を通して入ってくる。
「・・・ああ、シャンパンを・・・ヴーヴ・クリコあたりを・・・」
恐らくセルジオ辺りが、気を利かせたつもりで、
俺の電話を受けさせたのだろう。
「・・・できるだけ、急いで頼む。」
「口紅、塗る暇はあるかしら。」
「そんなもの、必要ないだろう。
君はハリウッドの美と官能のミューズだ。」
我ながら、どうでもいいというように洩らす言葉に、
ローサは嬉しげに微笑む。
目尻には細かく波が寄りつつあっても、
決して認める事はできないだろう、演じる事に憑りつかれた女。
「失礼致します。」
銀のワゴンとを押して、仕着せのベルボーイが入ってくる。
狭いテーブルに恭しげにセッティングする。
カウチの傍らでは、小さなコンパクト片手に口紅を伸ばす女。
赤味の差した頬、後れ毛のひとつひとつが、
つい今しがたまでの情事を物語る。
「こちらで宜しいですか?」
勿論、そんなことは気が付かぬ風をして、
頑なな微笑のまま、彼はこちらに目を向ける。
「ちょっと、待って。」
ローサにグラスを渡し、俺も手にとって軽く頬に口付ける。
「注いでくれないか。」
「畏まりました。」
フルートグラスを金色の泡が満たしてゆく。
注ぐ手は、心持ち震えているように、
その感情の緊張が、微かに引き締めた唇に漂う。
泡が、白く乱れる。
白いナフキンを片手に、綺麗に瓶の口を拭う。
「ほかに御用はございますか。」
真っ直ぐに瞳に突き刺さるような琥珀。
戦慄を覚える程に、魅惑的な色合い。
「では、失礼致します。」
控えめでありながら、優美に毅然と背筋を伸ばし、
答えを遮るように一礼する。
儀礼的な応接だけではない、何かを振り切るように。
扉を閉じる音に俺は覚醒し、苛立ちが湧き上がる。
苛立ちは遠い記憶のどこかに繋がっている。
ざらついたセピアのようなそれが、喉元をせり上がる。
情事の匂いが剥き出しのこの部屋に、突然息苦しさを感じ出す。
「ローサ、ちょっと飲っててくれ。」
「なあに、一体。」
不満げな声を聞こえないふりをして、部屋から飛び出す。
エレベーターホールのシャンデリアの下、
背中をまだ真っ直ぐに伸ばしたまま、彼が立っていた。
エレベーターを待つ頭がこちらへと向いて、開いた瞳に驚きが映る。
「ええと、君、タニ・・・・・・だっけ。」
「はい、リカ様。なにか。」
そこまで言われて、俺は言葉に詰まる。
なにか。
何だったのだろう、それは。
同じくらいの目の高さで、タニは俺の瞳だけを見つめてくる。
従業員の制服と、アンバランスなまでに挑戦的に。
シャンパンのように、微かに柔らかく心を泡立てる。
あえて品定めでもするように、上から下まで目線を流す。
滑らかな唇は言葉を洩らすまいと、小さく強張ったまま。
それでも、彼の目は俺の瞳にとどまったまま。
水晶体の奥の、心の揺らぎを探そうとでもするかのように。
彼の視線が不可思議な、不安と快感となり俺に絡みつく。
安っぽい好奇心からでは、決してないはずと自分に言い訳して、
ガウンのポケットから、紙幣を彼の手にねじ込んだ。
「いいえ、チップは結構です。」
押し返す手、いつかの繰り返しだ。
「いや、大女優の見物料だ。」
皮肉を称え、俺の口の端があがる。
強張った笑みが、彼の口の端に浮かぶ。
いつのまにかエレベーターは、その口を開き、
ホールの明かりから逃れる唯一の場所のように、陰を作る。
挑戦と躊躇がない交ぜとなった表情が歪み、タニの目が逸れる。
「お客様のプライベートを、思い出すような訓練は受けておりません。」
「それでも・・・だ。」
エレベーターホールの壁に、押し付けるように彼を押しとどめる。
飲み込む息が聞こえるほどに、顔を寄せる。
困ったような怯えたような、初めて幼さの残る顔になる。
「すみません、エレベーターが・・・・」
それでも従業員としての弁えを辛うじて保つようにして、身体を捻る。
「どうせ、また来る。」
「あなた様からは・・・・受け取れません。」
「どうしてだ。」
「どうしても、です。」
気丈に張った声音とは裏腹な震えが、押さえる腕に伝わる。
俺の中で眠り続けていた静寂が、揺さぶられる。
不思議ななまめかしさを伴いながら。
「見境無いドンファンからは、受け取れないか?」
ここで押すのは野暮と分かっていながらも、耳に触れるほどに近くで囁く。
栗色の後れ毛が、鼻先を掠める。
俺は正気を失っているに違いない。
「いいえ、・・・あなた様のご趣味でございますから。」
吐き捨てるように言いながら、どうしてそんな切なそうな瞳をする?
気が付いたときには、カラーから覗く細い手首を掴んでいた。
「離して、頂けませんか・・・?」
薄く浮き上がる蒼い筋、指が握り締められる。
何故か憤りよりも、不安を帯びた声。
「チップを・・・・受け取らないんだろう。」
どうしていきなりそんな気になったのだろう。
今はもう、俺の身体はこのしなやかな身体にぴったりと寄り添うほどで。
その心臓の音すら、服地を通して伝わってくるようだ。
「お願いします、誰か来ます。」
最上階はヴィスコンティのプライベートフロアだぞ。
「誰も・・・来ない。」
瞳を歪めるように笑みを浮かべ、唇で唇を軽く掠める。
血の気の引いたそれは、驚くほどに柔らかく瑞々しく。
しなやかな身体が反射的に突き飛ばすように、俺から離れる。
この妙な高揚感と自制の無さ。
今は自らへの嘲笑が、胸の底から沸きあがる。
「俺はな、見境無いからな。」
突き飛ばされたまま座り込んで、だらしなく俺は笑い転げる。
白白とした明かりの中、琥珀の瞳に晒されながら。
エレベーターの上がってくる音がする。
今しがた味わった唇が、形を取るのをぼんやりと見つめる。
「あんた・・・・、わかってない・・・。」
はっとしたように口を押さえ、
タニは開くエレベータ-のドアに、ワゴンごと飛び込んだ。
「おっと。」
入れ違いに出てくるユウヒにぶつかりかけながら、
エレベーターのドアが、閉じてゆく。
「ったく、なんだよ、一体。」
ぶつぶつ文句を言いながら、床にへたばって笑う俺を見つける。
「なんて格好だ、ほら。」
長い指が差し伸べられる。
いつもそうだ、お前は俺の手を取って、引きあげて。
それが俺の為なのか、お前の自己満足なのか、
恐らく二人とも分からないままもうどの位経ったのだろう。
「ローサが来てるんじゃなかったのか?」
「ああ、来てるとも。」
あの感触が、まだ唇を漂っている。
琥珀の瞳が、心に粘りつく。
そしてそれは戸惑うほどに心地よく、俺のなかに染み入ろうとする。
こみ上げてくる、苦い何かを噛み潰すように俺は笑いながら。
ヤツの肩に手をかける。
「さあ、三人で飲みなおそう。」
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