3.
ちきしょう。
ちきしょう。
「・・・・・幾らナチスが憎いからと言って、露骨に出しては駄目だ。」
ああ、分かってるよ。
でも、兄さんみたいに出来ない自分。
それに一番腹が立ってるんだよ。
勢いよく衣装を脱ぎ捨てて、衝立に投げかける。
ちきしょう。
ちきしょう。
「聞いてるのか?タニ?」
「聞いてるよ。兄さん。」
「だったら・・・」
ああ、分かっちゃいるのに、俺はつい言ってしまう。
こういうところが、まだまだガキなんだってことも分かってる。
「あいつらの目を欺いて、ドイツ人の振りをして生きていくんのなんて、
もう限界だよ。」
答えなんかはなからわかってる。
生きていく為だ、仕方ない。
俺は自分の燕尾を羽織りながら、苛々しっぱなしだ。
「我慢しろ。ユダヤ人は今まで二千年に渡り迫害されつづけ、
・・・・・・・俺たちは今、史上最悪の時代に生きているんだ。」
俺たちは今、生きる為に生きている。
それ以外は目に入らない、この錐揉まれるようなご時世。
ただ、生きる為にだけ。
いつの日か、訪れる何かをどうやって信じろと言うのだろう。
訪れるかすら定かではない明日を。
イミテーションの宝石のカフスを乱暴に止めながら、
俺は自問自答しつづける。
兄貴も姉さんも、何を見つめ何を信じて生きている。
俺はまだ、何もみつからない。
ただこのヨーロッパを席巻する軍靴の響きから、
身を隠すことだけに汲々として。
楽屋の奥で、誰かが身を起こす気配がする。
そういや侯爵が誰か連れてきてたな。
恐らくは亡命に失敗した、ユダヤ人。
侯爵は時折、そんな奴らを何処からともなく連れてくる。
理由もなにも聞く事もなく、ただユダヤ人というだけで。
この時代の歯車から、一人別の何処かを漂っているような風情で。
どこか諦めきったような冷めた瞳、それでも俺たちに協力してくれている。
つかみ処が無さすぎて、俺は気後れしながらも、
何処かで抑えられない興味が湧いている。
透徹した瞳に映っているこの世界は、一体どんなふうなんだろう。
そして俺は、いや、映っているかすら定かではないけれど。
「あの、ひょっとして、お二人とも・・・」
「ああ、母方の祖母がユダヤ人でね。」
そして低い声で、兄貴は彼に話し続ける。
マダム・ヘルガは異母姉で、あの侯爵がパトロンで。
突撃隊の巣窟のクラブ、彼は息が止まるほど驚いているだろう。
おれだって、信じられはしないさ。
多分、彼がいなければ。
「あなた方は一体なにをしているんです?」
低い声が歌うように響いてくる。
「ユダヤ人の知識人や芸術家に力を貸している。」
「噂には聞いていた、しかし、こんなところに。」
侯爵のくぐもったような笑い声が聞こえてくる。
俺は胸の蝶ネクタイを整えて、衝立から出る。
「侯爵、さっきは・・・・・・ありがとうございました。」
「咄嗟に馬鹿な嘘をついてしまったか。
許してくれ。」
「あ、いえ。
俺、弟分なんて光栄ですから。」
燕尾をきっちりと着こなしたしなやかな青年には、
もう先ほどの少年の面影は消え。
偽りのヴェールに覆われた瞳は、微かな翳がかかり。
その晴れやかな笑みに、陰影を投げかける。
さぞや美しい青年になることだろう、
もし、生き延びることが出来たならば。
それがこの時代の人間の、唯一の目指すところ。
生きる為に生きる。
「まったく、やんちゃも過ぎると火傷をするぞ。」
面白そうにそういって、さっき放り投げてきた帽子を渡される。
貴族らしく、優雅で細く長い指。
手の甲には、なぜか薔薇の刺青。
常に謎めいた笑みを浮かべ、俺なんかいつもガキ扱い。
俺はこの現実に、一人足をつけることが出来ぬまま、
灯火管制の街の底を這いずり回る。
つかみどころの未だに無いこの人に、沸いているこの思いすらわからない。
ただひたすらに気になる、興味がある。
ばさりと束ねた黒髪を物憂げにかきあげつつ、
さりげなく地下組織に関わりながら。
ナチスがこの大陸中を席巻しようと、やっきになり。
その理想を追い求めつつ、命の選別を推し進める狂気ともいえる情熱に身を任せ。
そんな世間に全く関わりなさそうな風情でありながら、
だれよりも未来を見越したような眼差しを時折投げかける。
ただの金持ちの暇つぶしなのか、
インテリの気紛れの慈善事業なのか。
でも、どちらにも思えない。
そして俺に面白そうな眼差しを投げかける。
俺は何故か、胸がじわりと温かくなって。
こんなご時勢だっていうのに。
こんなご時勢だからなのか。
「ゆうひ。
ちょっとフロアの方でお客様の相手をしてくれない。」
ヘルガが外から声をかける。
「たにもいるなら、ご機嫌伺いに来てよ。」
「・・・あ・・・・・うん。」
煮えきらずもごもごしている俺に、兄貴は苦い顔。
「もうしばらくしたら、連れて行く。」
侯爵様の助け舟にほっとして、俺は又椅子に座り込む。