驚くほど静かな夜だった。
世界はどこか異なる次元を回り、
一人置き去りにされてしまったように。




暗い廊下をシャツを整え急ごうとする。
わずかに足がよろめいた。
驚くほど簡単に、身体中の力が抜ける。
壁にもたれて、息を整える。
無意識に瞳が閉じられる。



あの部屋で、現実は霧のように溶けていった。
スプリングが痛いほど軋んでいた。
りかの吐息が耳元で聞えていた。
壁に揺れる影を目で追った。
りかの唇が身体をなぞっていた。
多分、ゆうひも。

互いに交わす言葉はなかった。
互いに交わす視線すらなかった。
剥き出しの皮膚は苦しい程に触れていたのに。
動物がお互いに疵を舐め合った、たとえて言うならば。
癒すなどというおこがましい事では、決してなく。
ただ、疵の存在を互いに確かめたかった。

その疵が、互いの身体の奥深くにあっただけだった。


首を振って立ち上がる。
ゆっくりと足を踏み出す。
一歩ごとに踏みしめるように、沈んでしまわないように。










階段を数えるようにして上がる。
後ろから伸びた手が、目を覆う。
ひんやりした指の感触で、分かる。
「りかさん。」
「ちぇっ、つまんねえなあ。」
目隠しした手を外し、悔しそうにりかが呟く。
本当は空気のざわめきだけで分かってしまう。
もうずいぶん会っていなかったような気がする。
自然と顔が綻んだ。



「久しぶりだな、そんな顔は。」
まろやかな声に、戸惑う。
まるで声すら思い出せなかったように。
「そ・・・、かな?」
帰ってきたばかりなのだろう、肩にはコートを掛けたままで。
柔らかな髪は軽く乱れて、額に影をつくる。
同じくらいの目の高さのはずなのに、何故だか視線に包み込まれる。
もう見慣れた姿のはずなのに、
胸が痛くなる程綺麗だと思った。






「俺のせいか。」
つい、言葉に出た。
思いもかけない瞳だった。
柔らかくて穏やかで、そしてまるで委ねるような。
そんな無防備な瞳を、たにはしていた。

まるでなにもかもを信じているような。
そしてなにもかもを受け入れるような。
現在も、過去も。
たにも、そして、りかも。

どれほどの絆が自分たちにあるのかなどと考えたことはなかった。
共に手を携えられるほど近くにいるとも思っていなかった。
始まりはどこからなのか、それすらも分からなかった。
けれども、ここにいるこの姿は確かに自らの一部となっている気がした。
たとえ、一時の幻にすぎないとしても。




遊びなら事も無げにこなせる事が、どうしても出来なかった。
ヤキが回った自分に苛ついていた。
ぶつける自分にそれでも伸ばされる手は、しなやかに心を絡めとり。

溺れてゆく。
こんな瞳の前に晒されたならば。

たまらなく心を焦らしていたものが、
なぜだかもう、どうでもいい事のように思えてくる。

湧きあがる。
こんな想いを自分は知らない。

踊り場の窓から、月の翳が差し込む。
しなやかな身体が、蒼白く縁取られ、
瞳は真っ直ぐに、自分に向けられる。
胸が痛くなるほど綺麗だった。







どちらからともなく、唇を寄せあった。
舌を絡めると、たにが小さく顔を引く。
「つめたい。」
不思議そうな声で呟く。
「嫌か。」
「そ、でも、ない。」

コートがたにをふわりと包み込む。
馴染んだはずのりかの匂いに息が詰まる。
苦しいほどに抱きしめられる。
布地を通して、その体温が分かるほどに。
もっと、この温もりが欲しくなる。
もっと。
もっと。


りかの背中に手を回す。
感じているこの温もりが、永遠のものであればいいと。
響いてくるこの鼓動は、いつか重なりあうのだろうかと。
祈るかわりに、抱きしめる。

いつからなのだろう。
こんなにも強くりかを求めるようになったのは。
自分の内にこんなにも激しい感情が巣食うようになったのは。
泣きたいような気持ちで、指を立てる。



ボタンに指をかける。
「あのさ。」
「だめ、我慢きかないんだ、俺。」
驚くほど滑らかに言葉が出る。
今はただ、たにが欲しい。
そう素直に思えるのは何故だろう。



遠慮の無い指が、身体を這い回る。
湧き上がりそうな衝動から逃れようと、身をよじる。
耳に湿った吐息が流れ込む。
背中にじわりと汗をかく。
膝の力すら抜けてゆく気がする。
指がファスナーに伸ばされる。
「えっと。」
「きかない、無理。」
耳元を震わす低い声だけで、胸が痛くなる。
コートの裏地が、剥き出しの肌に触れる。
ひやりと滑らかな感触に、鼓動があがる。
吸いつくような舌に、耳が熱くなる。
「ちょっと。」
「い・や・だ。」




驚くほど優しく、指に指が絡められる。
手を窓枠に据えられる。
背に甘い重みがかかる。
どれほどに自分が待ち侘びていたのか、気がつく。


漏れ出す喘ぎを、背中で楽しんでいるのが分かる。
硝子に白く、吐息が曇る。
うなじを舐めるように、唇が滑る。
重なる肌が、熱を帯びる。
漏れる息がいつのまにかりかの名前になる。
身体の揺れが、重なってゆく。



硝子を通した空は遠くなり、声だけが溶けていった。














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