バスルームの床に、蝋人形のようにたにが横たわる。
ゆうひの眉間に微かに皺が寄る。
感情は波立たない。
あえて押さえ込まずとも、もう習い性になっている。
ただ、鈍い痛みが硝子をかくような不協和音となって耳の奥に木霊する。
まるでおぼろげな夢を漂ってるかのような。

咥え煙草のままベッドに運ぶ。
腕に重みがかかり、やっと現実だと思い出す。
薄く浮いた汗を静かにタオルで拭った。
連日の桁違いの仕事によほど疲弊していたのだろう。
そして、夜の営みに。
自分の下種な思考に、思わず笑いが洩れる。
陶器の肌に、隈が透けて浮かぶ。
吐き続けた涙が、幾筋も痕を残す。
初めて屋敷につれてきた時は、坊や坊やした顔だった。
温室からいきなり連れ出されたような、そんな目が印象的だった。
追い詰められて、精一杯張り詰めて、
けれど澄んだ、真正面から見つめる目をしていた。
その目で見てきたものが何だったのか。
答えはもう出ているのだろう。
ただ、自分には関係の無い話なのだから。


秀でた額に、薄く髪が汗で張り付いている。
なぜか指で触れてみた。
ゆるりと睫の涙が揺れる。
思わず指を離す。
薄く目が開き、まともに見つめられる。
水差しから注いだグラスを手渡す。

「・・・・ごめん。」
水を飲んで、再び咽込んだ。
苦しげに揺れる背中に、手を伸ばす。
しなやかな、薄い感触が伝わる。
天使の羽根にでも触れるよう、緩くさすってみる。
「おれ・・・まだまだで。」
途切れ途切れに言葉が洩れた。
「ぜ・・・全然、使いモンにならないし。」
そして又苦しそうに身体を折り曲げた。


掌の下の感触がやっと落ち着いてくる。
疾うに日の暮れた冬の静けさが、部屋に戻ってくる。
自分とこいつの道がどこで違ってしまったのか。
いきなりそんな問いが浮かんだ。
うつ伏せのまま、たにが零れるように呟く。 
「一人前の仕事も、できないわけだよね。」
壁を見つめ、唇を噛む。
背中が強張るのが、掌を通して伝わってきた。
馬鹿正直なのか、なにもわかっていないのか。


必死にりかの後をついて回っているのは、嫌でも目についた。
前だけ見つめるその瞳に、一目置かれ始めているのも良く分かる。
あの人が魅かれて止まないもの。
気づかないふりをしても、どうしようもなく分かってしまう。




「りかさんも、そう言ってるのか。」

瞳が大きく見開かれる。
無くしてしまった言葉を捜すように、瞳が揺れる。


蒼白い肌に、唇が艶やかに紅い。









何かに導かれるように、ゆうひの手がたにの頬に触れる。
冷たい肌に触れた瞬間、それはびくりと震えた。
りかが触れた匂いがする。
ゆうひの中の何かが、崩れてゆく。


首筋に、口付ける。


皮膚に触れる唇は柔らかくて、けれど冷たくて。
不意に、りかの唇が浮かんだ。
その感覚は麻薬のように、たにの理性の何処かを沈め込む。
押し戻そうとした手が止まった。


紅い唇から零れる吐息を、掬うように唇を重ねる。


白い壁に、息遣いだけが這ってゆく。
深く息を潜めたような、夜の沈黙を縁取りながら。






重なるのは互いの表層だけで。

一人は混迷した自らの中のりかを。
一人は均衡の向こうのりかを。
互いの奥に見つけようともがく。



ベッドの軋む音が、微かにたにの耳に響く。
りかの影が行過ぎる。


何故これほどに切ないのか。
互いに色濃く残るりか、という匂いを貪りながら思う。
失ったものがなんなのかは分からない。
見つからないものがなんなのかは分からない。
ゆうひの中にも。
たにの中にも。


ただ、崩れてしまいそうで。
もう、溺れてしまいそうで。
そうなってしまえば楽なのかもしれない。
想いは、行き場をなくし。
それでもただ、虚しくもがく。


感覚は既に消え失せたかのようで。
言葉も無く、ただ触れあうだけで。
探る指のひとつひとつが、滑る舌のひとつひとつが、
すべてがりかに収束する。




もう狂っているのかもしれない。
ゆうひの意識が、彼方から囁く。
重なる身体を、荒くかき抱く。
俺の抱いているのは、誰なのだろうか。


まだ盲いているのかもしれない。
たにの意識が、奥底で呻く。
重なる身体に、腕を伸ばす。
触れる体温は、誰なのだろうか。



眼差しに映るのは、共に同じ景色。
それは共にあって、共に無いもの。
互いに奪い合っているのか、
互いに与え合っているのか、
それすら既に定かではなく。
ただ何かを確かめあうように、
重なり、触れ、求めあう。


そして、眼差しを逸らす。


薄い色の瞳が、きつく瞼に閉ざされる。
感情は途切れたまま波が押し寄せる。

紅い唇が、苦しげに開く。
感覚を押しのけて波に飲み込まれる。






細い肩甲骨が、痛々しいほど反り上がる。



そして、全ての音が消えた。
















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