初冬の乾いた塵がまとわりついたコートを脱ぐ。
扉を閉めて、眉間にまとわりついた鈍い痛みに気がつく。
ゆうひには分からない。
その痛みが、なんであるのかは。
ただ張り付いたようなその感覚を、こそげ落としてしまいたい。
首を軽くふって、ソファに横になる。
りかと自分の間の距離は、変わらない。
ハンドルを握る自分。
それを委ねるりか。
言葉を交わさずとも、空気で測れる距離。
それ以上踏み込む気もなく。
それ以上踏み込まれたくもない。
その均衡が心地よかった。
その均衡が続くと思っていた。
ゆっくりと身体を起こす。
りかに頼まれた仕事を終えてしまおう。
封筒からばさりと写真の束を机に投げる。
見せしめになる血の臭いが立ち昇るような写真を、
ゆうひの指は機械的に選んでゆく。
網膜に映るものが意味することを考えることは、もうなくなった。
この仕事では手を汚すことも時には必要だ。
舐めてちょっかいを出す処は徹底的に叩かなければ、こちらがやられる。
同じ闇を飼う自分だから、りかはやらせる。
血の臭いにうなされる夜が何度もあった。
それで潰れてしまうなら、それまでだと思った。
誰も自分の闇から逃げることなど、出来はしないのだから。
そんなことを考えながら、ただ当たり前のように仕事をこなしてゆく。
こびりついた痛みは、まだ消えない。
選り分けた写真を重ね、煙草に火を点ける。
白く細く立ち上る煙を、目で追った。
淡く消えるようでいて、名残の香りは深く纏わりつく。
それは自らの想いに似ているのかもしれない。
扉に遠慮がちな音がした。
「誰だ?」
「あの、遅くまで明かりついてたんで、コーヒー持ってきたんすけど。」
小さく開けた扉の前に、遠慮がちな顔のたにが立っていた。
「あ、気、遣わせて悪かったな。」
「いや、どうせ俺も起きてるから。」
無防備な言葉に、なぜか胸がささくれ立つ。
扉の前で立ち止まったまま、たには動こうとしない。
仕方なく立ち上がり、ポットを乗せたトレイを受け取る。
思い切った様にたにの口が開く。
「すみませんでした、色々と。」
何だ、今更。
「俺、全然分かってなくて、後先考えずバカやっちゃって。」
深々と頭を下げられる。
恐らく勝手に飛び出したことでも言っているのだろう。
行方も告げず逃げ出したと思われれば、りかに迷惑がかかる。
そこで理屈をつけて丸く収め、火の粉がかからないようにすることだってできるだろう。
なのに、りかの直属だというだけの俺にまで馬鹿正直に頭を下げてくる。
そんな処も、自分と正反対だ。
ふいにりかの眼差しを、思い出す。
「もう立ち消えの話だろう。俺も忘れてたしな。」
心にも無い言葉は、滑らかに口をつく。
表立ちはしなかったが、まことしやかな話は組中を駆け回った。
特別扱いの、大和組の一人息子。
りかが預かるという、その意図を誰もが測りかねた。
他人とは必要以上に関わらず、孤高を守っていたりかが。
わたると違い、およそ人好きのするタイプでもなかった。
そのりかに、何故たにを任せるような賭けをするのか。
そこまでして、大和の息子を取り込む事のメリットは果たしてあるのか。
火中の栗を拾うような真似をするのかと、知った風なことも言われていた。
何故厄介事をしょいこむ必要があるのか、と呟く者すらいた。
轟の慧眼に気づく者は、まだ殆どいなかった。
「本当に、バカ丸出しですみません。」
小さな頭が、又下げられる。
「謝るくらいなら、始めからするな。」
喉の奥に小さな棘が刺さったように、返事をする。
口を引き結び下を向くタニのシャツが、ゆうひの目に止まる。
幾度となく、自分も触れたオーダーメイド。
誂えたような白いシャツが、すんなりした肢体を際立たせる。
思わず目を逸らす。
棘が鋭い痛みを帯びる。
何故そんなことを言ったのだろう。
「取りあえず、入れ。」
思いがけない言葉に、たには戸惑ったように顔を上げる。
りかが泊まっていた時は、入り口で追い返された。
恐らくこの部屋にりかが泊まったのは、あの夜だけではないだろう。
部屋に通されて、初めてそんなことに気がついた。
ゆうひらしく、余計なものの無い無機質とすら言える部屋。
なのに、りかの匂いを色濃く感じるのは何故だろう。
自分がこんなにもりかの面影に敏感になっていることに、
たには今更ながら気がついた。
ゆうひがりかにとって、特別のところにいるらしいというのは知っていた。
およそ気難しいりかが側に置くのを許している人間は、ほんの一握りだ。
そして、自分はまだりかの中でどこにいるのか掴めない。
心のベクトルをとることすら、おぼつかない。
そんな不安定な気持ちが、部屋に入ることを躊躇する気持ちを後押しした。
たには部屋の香りを確かめるような顔をした。
そして、何かの覚悟を決めたような瞳をした。
この部屋にりかが泊まったことを、覚えていないはずがない。
りかとたにの関わりが尋常でないことは、薄々分かっていた。
たにの何がそれほどりかを引き寄せ、困惑させているのか。
ゆうひの無意識の底が、知りたいと疼いていた。
灰皿に置いていた煙草の切れ端を口に持っていく。
「お前も、いるか?」
写真を手に取り、尋ねる。
「いや、俺、吸わないから。」
素直に首を振る風情一つとっても、自分とは対極にあることが窺える。
申し訳なさそうに結んだ手を開く。
どうということもない仕草のはずなのに、見慣れた仕草に重なる。
心が又、ざわつく。
「りかさんから頼まれてるんだけど、お前どれがいいと思う。」
選り分けた凄絶な写真を手渡す。
戸惑い受け取ったたにの、血が引くのが分かる。
闇を飼う者しか触れられない仕事だと分かりながら、見せた。
暗い淵に立たせ背中を押している、自分。
身体中の力を振り絞るようにして、たには写真をめくってゆく。
この仕事が奇麗事ばかりとは思っていなかっただろうが、
大和組では恐らく触れることはなかったであろうことは想像がついた。
「・・・・ごめん・・」
手を止め、いきなりたにがバスルームに駆け込む。
内臓を抉るように吐く声を聞きながら、目を閉じる。
咥えた煙草を深く吸う。。
4本目に火をつける頃には、部屋に静寂が戻っていた。
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