TOP
3.
引き攣るような叫びをあげ、タンゴはいきなり幕を閉じる。
上気した頬を西洋の薔薇の色に染めながら、青年は肩で息をする。
「疲れたか?」
「 いえ・・・大丈夫。もっと、踊り。 」
おれと同じ高さで、唇はなお赤く曲線を描く。
媚びた顔はさんざん見慣れてきた。
こいつの顔に潜むのは、媚すらも忘れた孤独。
腐臭のたちこめた汚泥の沼に、たった一輪置きざりにされた蓮の花。
どうしていいやら見当もつかず、俺はひたすらにありがちな無粋を演じる。
そして、東洋の果ての街の底、バンドネオンはまた咽び声を漏らす。
「じゃあ今度は、俺と同じように。」
お互いに、両の腕に架空の女神をかき抱くように。
いつしか娼館の絢爛の隠し部屋は、南米の湿った大気に満ち溢れ、
数限りない架空の男達が、架空の女をその腕にかき抱き、
石畳にリズムを刻みはじめる。
俺の動きを追う青年の瞳は、部屋の空気をかき回し、
俺の潰れた耳に、幾つもの吐息が木霊する。
腕が、脚が、指先が、瞳が、
いつしか流れを合わせ、奔流となる。
女神は、靄のように形をつくり、
いつしか青年と同じ、香りを放つ。
外灘の濁った水の底で、粘つくような水流の奥で、
俺達は確かに踊っていた。
あの街並みが霞み始める。
上海発日本行きの豪華客船。
一等客室の甲板に、人影は殆どなく。
あの街を食い尽くした獣と、あの街に食い尽くされた抜け殻と、
どちらにしても、別れを惜しむ輩はそういない。
曇った天を、一筋、鴎が横切った。
もうじき雨になるだろう。
長江から流れを受けた、濁った水面は静かに波を打ち。
名残を惜しむようにゆっくりと、船はその足跡を波に刻み込む。
帰ったら何をしよう。
久しぶりに悪友どもと、不味い酒でも飲みにいくか。
口の悪い女たちを、引っかけに繰り出すか。
この国から追い剥ぎのように奪い去った札束で、幾晩も夢を見よう。
それでも決して、忘れることはできないだろう。
あれから俺は長椅子に倒れこんだらしい。
額に触れたのは、柔らかく細くそして冷たい猫の爪のような指。
霞む目に映る奴の瞳は、ランタンを受けて赤く色を変えた。
酔いにまかせて何やら説教めいた事をうめき続ける俺の声。
お前はずっと、戸惑うような顔をしてばかり。
「お前さあ、なんか、夢とかないのかよ。」
吐息が灯のように揺らめいた。
「 ・・・・・・・・・・・・・・ ブエノス・・ア、イレス。」
只一つ、嬉しそうにお前は擦り切れそうなレコードを指差した。
おそらく、場所すら知るはずもなく。
蹂躙された大陸の片隅、夜明けに夢見る、ブエノスアイレス。
それは彼方の大陸、地平に陽が沈む頃。
里弄の奥深く、いつか阿片の霧にまみれて、蓮は朽ちて沈むのだろう。
街の腐臭に融け、消え去るその時に、
お前はどんな夢を見る。
あの時の、あの部屋だけが、
遥かなる、ブエノスアイレス。
← Back RIKAORU →