「極めて遺憾だ」。4月25日、首相官邸で林芳正官房長官が来日したデンマークのラスムセン外相に険しい表情でこう言い放った。
本来であれば国王のフレデリック10世が大阪・関西万博参加のために来日したことを日本政府として手放しで歓迎するセレモニーになるはずだったが、そのムードに水を差しかねない一幕となった。
林官房長官がデンマーク外相に直接抗議の意を伝えたのには理由がある。昨年12月、反捕鯨団体「シー・シェパード」創設者、ポール・ワトソン容疑者(74)について、日本側が求め続けた身柄引き渡しをデンマーク司法省が拒否したからに他ならない。
デンマーク政府の正式決定後、ワトソン容疑者はすぐに保釈され、家族が暮らすフランスに移住。まるで「無罪放免」になったとでも言わんばかりに、再び日本の捕鯨を批判する活動を展開している。
「日本に強力なメッセージを送った。われわれは違法な捕鯨を決して許さない」。パリの広場に集まった数百人の支持者を前に反捕鯨活動の継続を宣言したことは、古くから「鯨とともに生きる」わが国の食文化や伝統的価値観への新たな挑戦状と受け取るべきであろう。
今後の活動について、ワトソン容疑者は共同通信のオンラインインタビューで、6月にアイスランドで「違法な捕鯨」を止める活動をすると表明。フランス南部、ニースで同月に開催される「国連海洋会議」でスピーチすることも明らかにした。
それにしても、容疑者に法の裁きを受けさせることなく、野放し状態を平然と許すあたり、日本人の常識では考えられない光景だが、さすが「自由の国」フランスである。今年2月には、パリのイダルゴ市長がワトソン容疑者に名誉市民の称号を与え、「連帯の意思表示だ」とも表明。駐日フランス大使への外務省の抗議もむなしく、今や文字通り日本の捕鯨文化と闘う「英雄」になってしまった。
そして、ここにきてもう一つ、容疑者の身柄引き渡しを求める日本側に大きな痛手となりそうな事態が浮上した。ワトソン容疑者の国際手配の可否を判断する国際刑事警察機構(ICPO)が、早ければ6月にも完全停止する可能性が出てきたのである。国際手配が完全停止すれば、逮捕状の効力が残る日本にワトソン容疑者が足を踏み入れない限り、永遠に身柄を拘束できないことを意味する。つまり、日本以外では「無罪放免」が本当に実現する可能性が高まったとも言える。一体何があったのか。
日本の海上保安庁が傷害と威力業務妨害など4つの容疑でICPOを通じてワトソン容疑者を国際手配したのは2010年。逮捕状の容疑は同年2月、シー・シェパードの抗議船「アディ・ギル号」のニュージーランド人船長と共謀し、日本の調査捕鯨船団の監視船「第2昭南丸」に異臭を放つ酪酸入り瓶を投げ入れて妨害、第2昭南丸の乗組員3人にけがを負わせた行為だった。海保によると、瓶を投げ入れるなどの妨害行為は船長1人の犯行だったが、船長の供述などからワトソン容疑者が指示していた疑いが強まり、海保は共犯関係にあると判断した。
海保は当初、ワトソン容疑者の身柄拘束は求めず、所在や身分確認などの情報を求める「青手配」を要請していたが、2012年5月、ワトソン容疑者が中米コスタリカ当局が出した危険航行容疑の逮捕状によりドイツで身柄を拘束された後、保釈中の同年7月に出国して所在不明となったことを受け、各国がそれぞれ国内法に基づいて身柄拘束など強い対応ができるよう「赤手配」を改めて請求。拘束した国があれば、容疑者の身柄を日本に引き渡すようICPOに求めた。
ワトソン容疑者が保釈後に行方をくらましたのは「日本への移送を恐れたことが理由だった」とシー・シェパードが後に声明の中で明らかにしている。援助などを通じて日本政府が一定の影響力を持つ発展途上国のコスタリカは、日本の引き渡し要請に応じる恐れが強いと判断したとみられるが、ワトソン容疑者自身は「日本で拘束されれば二度と釈放されない」と周囲に漏らしており、「人質司法」と揶揄される日本の刑事司法制度への懸念が大きかったようである。
その後も和歌山県太地町のイルカ追い込み漁が残酷だとして、米ニューヨークの日本総領事館前で行われた中止を求める抗議活動に姿をみせるなど、国際手配中にもかかわらず、欧米を中心に積極的な反捕鯨活動を繰り広げた。
だが、昨年7月に事態が一変する。ワトソン容疑者は日本の捕鯨母船「」の操業を妨害するため、デンマーク自治領グリーンランドの中心都市ヌークへ船舶の給油のために立ち寄った際、現地グリーンランド警察に身柄を拘束されたのである。
日本への移送回避を画策
海保はすぐに外務省を通じてデンマーク側に身柄の引き渡しを要請した。政府関係者によれば、デンマーク側も当初、身柄の引き渡しに応じる意向を示していたが、フランス大統領府がマクロン大統領の意向として「身柄の引き渡しに応じないよう強く求める」などと表明。フランスでは容疑者の釈放を求めるオンラインの嘆願に30万人以上の署名が集まるなど、その後も欧米の反捕鯨国を中心に引き渡しに反対する圧力が強まり、デンマーク司法省は「逃亡の恐れがある」として、約5カ月に及ぶ異例の勾留延長を繰り返した。
ワトソン容疑者も仏国籍取得や政治亡命を申請し、日本への移送回避を画策した。日産自動車元会長、カルロス・ゴーン被告の弁護人を務めたフランソワ・ジムレ氏らが弁護団を結成し、身柄の引き渡し拒否に向けた動きが広がった。フランスの元駐デンマーク大使だったジムレ氏は産経新聞の取材に「日本側の追及は容疑の重さに見合わないほど執拗であり、捕鯨に戦いを挑んだことへの『政治的報復』にほかならない」と答えている。
一方、日本の海上保安庁は事態の打開を図るため昨年9月、捜査部門トップの警備救難部長をデンマークに派遣した。政府関係者によれば、日本側は「捕鯨の是非」という立場の違いを超えて、法と証拠に基づく日本への引き渡しの正当性を主張したが、デンマーク側からはワトソン容疑者が高齢であることや、逮捕状に記載された容疑の対象行為が14年前で古い事案であったことなどを理由に色よい返事は来なかった。
ただ、デンマーク検察庁のトップとグリーンランド警察は日本への身柄引き渡しに応じるべきだと主張。司法省も「日本の司法制度は人権を保護している」と理解を示したが、引き渡しについては首を縦に振ろうとせず、その後も両国の協議が続いた。そして同年秋ごろ、デンマーク側から外交ルートを通じて、一つの「妥協案」が日本側に示された。判決確定までに刑事施設で身柄を拘束する「未決勾留」の期間を刑期から差し引くよう日本側に求めたのである。
だが、日本の刑法は、海外での未決勾留日数を刑期に算入することを認めていない。つまり、日本側に対しては「超法規対応」を求めたことになるが、政府関係者によれば、法務省と協議した結果、今回の事件で「法治国家としての原則をねじ曲げることはできない」との結論に至り、デンマーク側の要請には応じないことを決定したという。
それともう一つ、引き渡し拒否の要因として、デンマーク側の複雑な国内事情もあった。ワトソン容疑者の勾留先だったグリーンランド自治領は、先住民による捕鯨を例外として認めている。だが、欧州本土にあるデンマーク政府は反捕鯨の立場を取る。こうした立場の違いが身柄拘束から一転して、保釈を決定した背景にあった可能性が高い。
こうして思惑通り保釈することに成功したワトソン容疑者は次の手に打って出る。それはICPOが自身にかけた「国際手配」の停止だった。日本が取得した逮捕状の動機について、ワトソン容疑者側は「日本の政治的動機に基づくもの」と主張し、完全停止を求めたのである。
ワトソン容疑者側が「政治的動機」を強く主張するのには理由がある。現在、196の国と地域(令和7年2月時点)が加盟しフランス南部の都市、リヨンに本部を置くICPOは、国外に逃亡した容疑者や行方不明者を捜す国際手配書の発行を主な任務とする。「インターポール」とも呼ばれ、詐欺や強盗、密輸などの事件で使われる新たな手口を各国の警察に通報するほか、テロやサイバー犯罪対策では専門家による作業部会や捜査官による捜査会議も開催。また指紋やDNAなどの情報をデータベース化して提供している。
ICPOの歴史は古い。1923(大正12)年に前身の国際刑事警察委員会が設立されて以来、国際的な犯罪の防止や摘発のため、各国の警察が協力する機関として発足した。現在の組織に移行したのは1956(昭和31)年であり、日本は前身時代の52(同27)年に加盟し、年次総会には毎回代表団を派遣。2017年には米国に次いで2番目に多い分担金を拠出した。
ただ、ICPOが直接捜査を行う権限はない。「待てぇ〜、ルパン」のおなじみのセリフで知られる人気漫画「ルパン三世」に登場する銭形警部は、原作でも警視庁からICPOに出向した専任捜査官という設定で描かれている。「インターポール」を想起する一例として、世界各国を飛び回り、投げ手錠を振り回しながらルパンを追い続ける銭形警部の姿を思い浮かべる人もいるかもしれないが、国外に逃亡した容疑者を実際に逮捕するのはICPOの捜査官ではなく、逃亡元の国や地域からの要請を受けた各国の警察機関である。
一方、ICPOが主な任務とする国際手配書の発行は色ごとに区分けされ、全部で8種類ある。ワトソン容疑者に出された赤や青手配以外にも、他国でも犯罪を繰り返す恐れがある容疑者に出される「緑手配」や主に行方不明になった未成年者の情報提供を求める「黄手配」、公共の安全に対し切迫した脅威となるイベントや容疑者などに出される「オレンジ手配」というのも存在する。
警察庁によると、令和6年に日本がICPOを通じて外国に捜査共助を要請した件数は1169件。逆に外国から共助を要請された件数は874件に上り、サイバー攻撃など国境を超えた犯罪が激増する中で、ICPOの存在意義は以前にもまして高まりつつあると言えよう。
ICPOには「憲章」という名のルールがある。各国からの警察組織から出向した職員は、国際手配の可否を決める際、この憲章の理念に基づき、正当な根拠があるか、政治目的でないかをチェックする。というのも、憲章には「政治的、軍事的、宗教的または人種的性格を持ついかなる干渉、活動もしてはならない」と組織の活動原則が明記されており、このルールが守られているかどうか点検することはICPOの重要な役割でもある。
つまり、ワトソン容疑者のケースでは、日本側の逮捕状が「政治犯」の拘束を求める目的と認められれば、ICPO憲章の理念に反するとして、「赤手配」が消滅する。ICPOは今年4月、日本が取得した逮捕状に「政治的疑義が生じた」として、システム上から手配書を一時的に削除した。シー・シェパードの声明によると、6月に開かれるICPOの会合後にワトソン容疑者の手配が妥当かどうか、最終決定するとの通知を受けたとしており、これが事実ならワトソン容疑者を巡る状況は手配の継続か、消滅かで劇的に変わる可能性が高い。
テロリスト野放しを許すな
外務省の北村俊博・外務報道官は4月9日の記者会見で「傷害、器物損壊などの共犯に問われ、一般犯罪の容疑者として手配された」と指摘した上で「捕鯨に関する考え方とは関係なく、法執行の問題というのが日本政府の一貫した立場だ」と強調。海上保安庁の瀬口良夫長官も同16日の定例会見で「国際手配の継続は必要であり、引き続き関係省庁と連携して適切に対応する」と言及した。とはいえ、仮にICPOの国際手配が消滅しても、日本国内で発行した逮捕状の効力は失効しない。ある政府関係者は「フランスは反捕鯨国であり、長年にわたりシー・シェパードの活動支援を続けた。ICPOの本部もフランスにある。突然降って湧いた『政治的疑義』という名目も、その裏に何があったのか、推して測るまでもない」と話す。
カナダと米国の二重国籍を持つワトソン容疑者は、国際環境保護団体「グリーンピース」に所属していたが、暴力的で過激な手法が問題となり、同団体から脱退。1977年、鯨などの海洋生物保護を目的に米国でシー・シェパードを設立した。日本の調査捕鯨への妨害は2005年に南極海で始まり、体当たりや薬品の投てきだけでなく、1986年にはアイスランドの捕鯨船に衝突して沈没させた。
宮本武蔵にあこがれ、日本の調査捕鯨を妨害する活動を「ムサシ作戦」と名付けたこともあり、「日本文化が好きだ」と発言。「日本国民ではなく、日本の捕鯨を標的にしている」と語ったこともあるが、過激な活動や言動を繰り返す裏にはメディアを積極的に利用し、企業や支援者から活動資金を募る目的が大きい。実体は環境保護をうたった「テロリスト」そのものであり、他国の文化や価値観を無視した彼らの活動を支援することはテロ支援と同義といっても過言ではないだろう。
日本は2019年、国際捕鯨委員会(IWC)を脱退し、商業捕鯨を再開した。日本では歴史的に各地の沿岸で捕鯨が営まれ、1930年代に入り南極海にも進出。鯨肉は戦後の食糧難の中、学校給食などで重宝された。その後、世界的な捕獲規制の動きが強まり、82年にIWCが商業捕鯨の一時停止を決定。日本も88年に撤退し、南極海などで捕獲数の算出に必要な科学的データを集める調査捕鯨を実施したが、IWC脱退後は領海や排他的経済水域(EEZ)で主に鯨肉などの販売目的で商業捕鯨を行っている。
水産庁によると、これまでの調査で十分な資源が明らかになっているミンククジラ、イワシクジラ、ニタリクジラを対象に「100年間捕獲を続けても健全な資源水準を維持できる」と指摘。昨年7月には商業捕鯨の対象にナガスクジラが追加されたが、同庁は「科学的知見に基づく鯨類の資源管理に貢献するとともに、IWCが本来の機能を回復するよう正常化に向けて取り組んでいく」としている。
水産庁のホームページには商業捕鯨の再開に至った経緯を次のように紹介している。
《IWCは、国際捕鯨取締条約の下に設置された、「鯨類の保存」と「捕鯨産業の秩序ある発展」という2つの目的を持った資源管理機関です。しかしながら、鯨の持続的利用を支持する国と反捕鯨国との間の長年にわたる対立から、鯨の管理についても保護についても決められない状況が続いています。
我が国は、IWCに鯨類資源管理機関としての機能を回復させることを目指し、30年以上にわたって、解決策を模索してきました。その中で、反捕鯨国は、科学的根拠の如何に関わらず捕鯨を認めないこと、つまり、鯨の持続的利用を支持する国とは、鯨と捕鯨に対する基本的な考えや立場が異なることが明らかになりました》
要するに「反捕鯨」を支持する国々にとって、鯨の資源が回復しようがしまいが、科学的根拠に基づくデータがあろうがなかろうが、「クジラの保護」という大義名分だけが重要であり、捕鯨に対する基本的な立場が異なる国々との「共存関係」などハナから望んでいないのである。この考え方はワトソン容疑者やシー・シェパードにも通底する。
立場や考えが異なる相手の聞く耳を持たず、己が信ずる正義だけを振りかざす。どんなに時間をかけても歩み寄りがみられない以上は組織から脱退するしかない。これがIWC脱退の真意であるならば、やむなしと思うのは筆者だけであろうか。
とはいえ、ワトソン容疑者の保釈に関して言えば、日本政府の外交努力が足りなかったことも事実である。フランスが国を挙げてワトソン容疑者を擁護し、デンマークにまで外圧をかけ続けたのに対し、日本は法と証拠に基づく身柄引き渡しの正当性をどこまで世界にアピールできたのか。甚だ疑問である。
反捕鯨団体という「国際テロ」と対峙した海上保安庁にとっても、ワトソン容疑者の逮捕は長年の悲願だった。フィクションでたとえるなら、ルパンの逮捕に執念を燃やす銭形警部は、手配がなくなれば、二度とルパンを追えなくなる。刑事人生のすべてをルパンに捧げた銭形警部の執念を無にするような「茶番劇」を許していいはずがない。(産経新聞社会部編集委員)
(月刊「正論」7月号から)
しらいわ・けんた 原子力規制庁、国土交通省、環境省などを担当。平成十三年産経新聞入社。大阪社会部、産経デジタル、大阪正論調査室次長を経て現職。大阪社会部時代に「橋下徹研究」「吉本興業研究」を取材、執筆した。