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會津二十
日捲りがかわるたび、私のこころは浮き上がってゆくようだわ。
壱拾日の大川で、あの方にお会いできる。
「お父さまにお伺いしてからよ。」
母はやれやれというように、浴衣をせがむわたしに釘をさす。
拭き上げた廻り縁を書斎へと渡ってゆく。
この道を渡ることは、幼い頃はちょっとした冒険のようなものだった。
行き着く先のお部屋には、ご本が溢れかえるように立ち並び、
装丁の革の香り、かび臭い紙の匂いが沈んでいた。
異国のお伽話にでてくるような、洋書の挿絵を夢中で眺めていた。
少しずつ、少しずつ、それでも読めそうな本を与えてくれる父と、
休日に静かに本を読むと、こころが不思議と落ち着いた。
「お父さま。」
書斎の窓の硝子を通す夏の光も、ここではかしこまっているようだ。
父は少し眩しそうに顔をあげて、万年筆を置いた。
「薫子か。」
「はい。」
そのまま、時が緩やかに遡るように、わたしはいつもの椅子に腰をおろす。
わたしが家族の中で一番気が合うのは父だ、と母によくからかわれた。
時折の静かな休日の昼下がり、お互いに言葉を交わすわけでもなく、
曇り硝子のような空気の中で、ただ本にかじりついている姿がとてもよく似ていると、
兄もよく笑っていた。
でも、本当は父がすこし怖いときが有る。
学校で辛いことや悲しいことがあったとき、一身に本を読むことで、
本にぶつけて消化しようとしている自分が見透かされているようで。
そういうときはいつも、途中で物語を放りだして逃げ出してしまっていた。
「学園は、どうだね。」
眼鏡を外して、父は椅子ににゆっくりと凭れかかる。
夏休み、そういえば書斎でお話するのは今日が始めてだった。
「とても・・・・・とても、楽しいです。」
「そうか、それはいい。」
父はいつでもわたしを真っ直ぐに見る。
わたしは知らず知らずのうちに背筋をのばして、父を見る。
「なにか、面白い本は読んだかね。」
「ええ、同じお部屋のお姉さまがとても読書家でいらっしゃるので、
色々と貸してくださいます。」
「ほう。」
「あの。でも、まだ、よくわからないものも多いのですけれど。」
迂闊なことを言ってしまっては、すぐにばけの皮がはがれそう。
言い直すわたしを、父は笑って聞いていた。
「なんにしても、良いことだろう。」
「でも、まだ、よくわからないことも多いから・・・・・」
「わからないと、良くないのかね。」
「え。」
珍しく父に問い返されて、わたしは少し考え込む。
「でも、わからなければ、たたぼんやり文字を眺めているのとかわりません。」
とりあえず、頭に浮かんだ反駁をこころみる。
「どんなに立派なご本でも、釣り合いがとれていない読み手ではなんにもなりません。」
「随分と、手厳しいな。」
「あの、わたしが、釣り合いがとれていないなと、
自分を思ってしまうことがあるから・・・」
段々と声が消え入ってゆく。
わたしは、なにを話しているのかしら。
「わたしにもっと色々な教養があって、もっと考え深かったならば、
わたしは立派なご本から、沢山得られるものもあると思うのです。」
「なにも、得られないのかね。」
「得られないっていうか・・・ぼんやりと見えるような気も、するのですけれど。
それが頭に整理しようとすると、ごちゃごちゃになってしまって。」
「薫子はごちゃごちゃは、嫌いだったね。」
「きちんと形になってくれなくて、結局よくわからないままに放り込んでいるようで。」
「わたしは・・・・・ごちゃごちゃも、いいと思うがね。」
「え。」
「そういった混沌は、味わいがあるかも知れん。」
父の話がよくわからなくなってきた。
よくわからない話をもちだした、わたしへの仕返しなのかしら。
「余りにね、きちんとさっぱりまとまっているものは、
余りに物が決まりすぎていて、詰まらない。」
確かに父の書斎は、うちで一番混沌とした部屋だけど。
「でも、きちんとまとまっていた方が、新しく入ったものも役に立つように
きちんと整理できますわ。」
「なんだか、母さんみたいな言い方をするな。」
茶化されたようで、わたしは口をすこし尖らせる。
「わたしの頭の箪笥は、出来が余りよくないのかもしれません。」
唐突なわたしの喩えを、父は面白そうに聞き返す。
「きちんとまとまった、箪笥が欲しいのか。」
「なにか、とても窮屈そうにも思えるがね。」
「お父さまはお片づけが、余りお好きではないから。」
そういって父に膨れてみせる。
父はといえば、どこ吹く風で、
パイプ立ての使い込んだブライアーのパイプを取り上げる。
「でも、片付けられる・・整理できる知識ばかりとは限らないじゃないか。」
「お父さまでも?」
「そりゃそうだ。そういった時は、どうするね。」
「え・・と。」
「放り遣るのか?」
「・・・そうは、しないと思います。」
「じゃあ、どうする?」
「とりあえず、どこかへしまいます。」
父は嬉しそうに、わたしの目の奥を覗き込んで、
銀色の煙草の缶の蓋をあけた。
「わたしも、そうするだろうな。」
父はわたしに仕返ししているわけではないのだ。
分かっていたことだけれども、嬉しくなってわたしは父の話を目で促す。
「色々な考えや人々に出会うとき、余り物事に決まりをつけ過ぎていては
結局引き出しが足りなくなってしまうかもしれないしね。」
わたしにはまだ、そんな引き出しすらない。
「とりあえず面白いと思って、ぼんやり眺めて、どこかに投げ込んでおく。」
そういうのは得意、なのだけれど。
「そのうちに、自分の中になにか応ずるものが出るだろう。」
「さしあたり混沌であるからには、あらゆるものをまず入れてみる。」
ゆったりと煙草の葉をパイプに詰めながら、わたしたちの会話は続いてゆく。
「それが混沌であればあるほど、何事であれ頭から否定さえしなければ、
人間の頭から生まれたもので有る以上、共鳴するなにかが見つかると思うがね。」
「ぼんやりしたわたしでも、見つかると思いますか?」
「ぼんやりしていて気が利かなくて、少し鈍い位の方が、
何が出てくるかわからなくて、かえって面白い。」
「まあ、ひどいわ。」
そして、お父さまと顔を見合わせて笑った。
曇り硝子を通す陽の光が、ほんの少し明るさを増したように思えた。
「話は、それだけかね。」
肝心なことをまだ言っていない。
「あ、あの、今度の壱拾日の大川の花火大会なのですが。」
「ああ、もうそんな季節か。」
「はい、行ってきてもよろしいですか?」
「どなたか、ご一緒なのかね。」
「ええ、上級生のお姉さま方が連れて行ってくださると。」
答えがすこし早かったかしら、口調がいささか気ぜわしかったかしら。
お父さまはわたしを、見透かしていらっしゃるのかしら。
「薫子は、行きたいのかね。」
「はい、とても。」
わたしはあまり、自分からものをねだらない性質であったと思う。
そのわりにきつい口調は、よほどに行きたいと思われても仕方ない。
「では、行っていらっしゃい。」
「 ・・・・ありがとうございます !」
「皆さんに、ご迷惑をおかけするのではないよ。」
「ええ、ええ。」
「返事は一回で宜しい。」
「はい。」
後にした書斎のむこうから、舶来の煙草の香りが微かに漂った。
もうすぐ、お姉さまにお会いできる。
わたしは混沌の中、なにを見つけるのだろうか。
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