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                           會津ニ十












「あの、宜しかったら伺っていいでしょうか、淳子様。」

「・・・・・・ええ、いらしたらどうかしら、何も出来ませんけれど。」



白い蝋細工のような指が、優雅に陽子お姉様に差し出される。
手をたずさえられたお二人は、静かに微笑まれる。
まるで、わたしなど、其処にいないかのように。

わたしなど・・・・・










ふりそそぐ蝉の声に、汗ばむ身体で蚊帳を引き上げる。


もう、ここは寮ではないのだわ。
縁側に弾けるような夏の光は、木々の間を抜けてつきさすほどにちから強い。
あの、学園の日々が幻であったのではないかとすら思わせる、
懐かしく穏やかな日常に、わたしは心地よく浸ろうとする。
それなのに、葉山の最後のあの夜の小さなささくれは、
すこしずつすこしずつ、わたしの心で膿をもつ。
そしてわたしは、はじめて熱をおびた心の痛みというものを、知ったのかもしれない。


「薫子、起きたのなら、早くいらっしゃい。」



久しぶりに帰ってきた娘に、ねぎらいを込めたように母は甘やかしてくれる。
急いで寝巻きを着替えながら、その有難さをかみしめる。
あたりまえのように包まれてきた思いは、あたりまえでないということ、
わたしの見えていないことが、この世にはまだどれだけあるのだろう。











ふりそそぐ蝉の声に、朝の光は夏のそれへとたちまちに姿を変えてしまう。


寝台に運ばせた盆の、紅茶をそっと口に含む。
わたくしの好みのバタ、香ばしい香りが立ちのぼるパンは焼きすぎず、
つややかに瑞々しく汗をかいた新鮮な水蜜桃。
もう慣れていたはずの、一人きりの朝食。
そしてわたくしは、寂しさという棘に静かに絡みつかれてゆく。

好きなものだけに囲まれて、それが一番心地よかった一人きりのわたくし。
わたくしが好きなものたちが、今朝はなぜか色を失ったように盆に並んでいる。
乳白色のかけらを少し齧りとる、口腔に広がる甘露なはずの味わいがいつになく苦い。
寂しさというあたりまえの思いを、わたくしはいま初めてかみしめている、
わたくしの知らないことが、この世にはまだどれほどにあるのだろう。











庭の楓や梧桐をくぐり、涼やかな風が庭を渡る。
箒を操る手を止めて、微かにたゆたう空気を額にうける。

お父様は、大学へ調べ物があるとかで行ってしまわれた。
お母様は、どちらかへお呼ばれとか。
折角帰ってきたのにすまないわねと、慌しく出かけてしまって、
残されたわたしは、部屋の掃除などをしてしまう。
沓脱石の傍らに朝顔の小さな鉢が、ちんまりと寄り添うように並んでいる。
朝顔市で買っておいたと、ぶっきらぼうにお父様が仰った。

如雨露の水をはじく朝顔が揺れ、夏の光をうけて微笑んでくれるようで、
わたしはこんなにも恵まれているのだ。



雑巾を固く絞ったら、丁寧に畳の目に沿って走らせる。
薄く水を吸ってつややかな畳に、部屋が段々となじんだ色にうつってゆく。
掃除を終えたらなにをしよう。
この界隈でも、歩いてみようかしら。
少し足をのばしたら、上野の山や動坂の薔薇園。
S坂を下って、権現さまにでも行ってみようか。
そういえば、今年はつつじを見られなかった。
小さな頃には、毎日のように遊びに行っていたあちらこちら、
大好きだった町並みからも、いつしか脚が遠のいてしまった。
そんな記憶の中の色々なものが、懐かしい香りのするもやを被って、
一斉に押し寄せてくる。

たった数ヶ月の学園の日々は、それまでのわたしの日常を、
遠く押し流してしまうほどに、鮮やかにわたしの目を眩ませてしまった。
それは多分に、淳子お姉様という清冽な印象のせいなのだろう。

ぴかぴかに磨いた机に頬を乗せ、瞳を閉じるとひんやりとした感触が心地よい。
蝉の声を溶かしたように、梢をわたる風が髪を軽くなぶるのを感じながら、
わたしはゆるやかに眠りに誘われる。


淳子お姉様・・・・
どうしていらっしゃることだろう。










窓から入るそよ風が、耳元で囁くあの子の吐息にかさなった。
膝に置いた本の頁が、くすぐるような音を立てる。
無意識の底から、浮かび上がる面影を幾度となく追い払いながら、
味気なく文字を追うだけの作業を、もうどのくらい続けていたのかしら。
硝子のむこうに広がる空の、突き抜けるような青さの中、かさなっては消えてゆく。

薫子・・・・・・・
わたくしの心は、あなたのもとへ飛びたつことができるのかしら。











掃除は嫌いじゃない、やりだすと止まらないのが難点だけれど。
そろそろと、風に夕暮れの匂いが混ざりはじめる。
埃にまみれて、じんわりと身体がべたついて、お転婆な少女に戻ってしまったよう。
淳子お姉様には、とてもお見せできない姿だわ。



縁側に下駄をそろえて、そっと足をいれる。
赤い鼻緒の子供じみたそれは、いささか踵が足りなくなっていた。
庭の蔭った隅の物置から、大きな盥を井戸端までずるずると引きずってくる。
お母様がいらしたら、はしたないと怒られてしまうかもしれないけれど。
青い布を通し、井戸の口からちょろちょろと零れる水が、
西に傾いた日をうけて、ねじれるように盥を満たしてゆく。






お気に入りの紅型の手ぬぐいを、ゆっくりと身体に沿ってすべらせる。
夏の一日の乾いた肌に、水がしみて心地よい。



日に焼けた腕のひりつきが、わたしを葉山にまた引き戻す。
あの煌くような日差しをうけてなお、透きとおるような肌をしていらした。
わたしなどが手の届くはずもない、気高さと美しさを優雅に纏われるあのお姿を、
憧れを込めて見つめることが許される、それだけでも過ぎた幸せなのだ。

肩から鎖骨、そして柔らかな丸みをおびた胸へと手ぬぐいをすべらせながら、
身体を伝う冷たい水滴とは裏腹に、心がまた火照りだす。
痩せぎすの少年のようなわたしとは似ても似つかない、
しなやかな女性らしいお姉様のお姿が、瞼から離れてくれない。
薄い鳩尾を揺れる水がやさしく弄って、寄せてはかえす。
夢幻の彼方に押しやらなくてはいけないはずの、浜辺のひと時がよみがえり、
まわされた腕の中、あの方に身体をあずけた至福の瞬間で頭が一杯になる。



膿んだ心を抱きしめるように止まった手を、白いままの胸に押し当てる。
小さな膨らみにしまいこんだ鼓動が、密やかに掌に伝わってくる。



わたしはこんなにも、淳子お姉様のことを。



切れ切れにしか覚えていない、あの夜の感触が不意に鮮明に蘇る。
水に浸した人差し指で、口唇をなぞってみる。

水面に顔をうつして、あの方のお顔を重ねて思う。
見つめるだけで過ぎたことと、わかっているはずなのに、
それでも触れていただきたいと、あの方に触れてみたいと思ってしまうわたしは、
やはり、汚らわしいと誹られてしまうのだろう。

定かではない痺れるような漣が、背中の裏をなめるように這いあがる。
心の奥底に押し潰していた思いが、堰を切るようにあふれてとまらない。
冷えた肌とはうらはらに、漏れる吐息が熱を帯びるのは、どうしてなのだろう。
震えそうなのは冷たい肌のせいなどではなく、
緩やかにあふれだす、切なくあついこの吐息のせい。
鼻の奥から刺すような痛みがこみあげて、水面のお姉様の微笑が滲む。
あの方の華奢な指は、どのようにわたしの上を滑っていたのだろうか。
あの方の白い掌は、どれほどにわたしを包んで下さっていたのだろうか。

思いもかけぬほどにおしよせる、激しいといってもよいはじめての衝動は、
ただひたすらに薫子をとまどわせるばかり。
うつむき怯えたように首が細く震え、薄桃色の頬を泪が一筋つたう。

おずおずと滑らせる指は、優しく吸いつくようなあの方のそれとは及びもつかず。
記憶の糸は、あざ笑うように断ち切られ、
疼くような痛みだけを、身体の芯に置きざりにする。



わたしにできることといえば、ただ身体をかき抱き、
ひたすらにこの火照りがしずまる時を、待つことだけ。






遠く寛永寺の鐘が聞こえる。
茜を刷いた空に、誘われるようにからすの翳がぽつりぽつりと浮かびはじめる。











お姉様が、陽子さまの手をとられたのならば、

――――――――― わたしの心は何処へゆけばよいのだろう。









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