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吉屋かめ乃
一年生が皆席につき、ざわめきが静まったのを機に
淳子はゆっくりと席を立った。
あなたはきっと知らないでしょう、薫子。
わたくしがどんなにか心を詰まらせ、苦しみの渦に苛まれているかなど。
けれど、知らなくて良いのです。
それを覚られぬ為に、わたくしがどれだけの血を吐いたことか。
思うのもくだらない。
わたくしは永遠にこの在り方を変えられはしないのでしょうから。
これがわたくしに架せられた磔刑。
淳子が前に進み出ると、静けさは熱を持って一層はりつめる。
淳子お姉様が、今日はいつもの幾万倍も遠のいてみえる。
いいえ、これこそが本来の距離なのだわ。
余りにもお傍に居すぎて忘れていた、この感覚。
淳子お姉さまは皆様にもとめられながら、
決してだれも、淳子お姉さまのお着物の端すらつかめない。
けれど・・・それが似合う淳子お姉様が、わたくしは、すきなのね・・・。
「 生徒会からなにか、という習慣でして―― 」
講堂を見渡し、薫子の居るあたりに視線を泳がせる。
何をそう、哀しい顔をするの?
わたくしはもう、あなたの爪先のすぐそばにまで
この顔を近づけているのよ。
薫子――――――
「欠席して居ります会長の大門月湖に代わりまして、
お目汚しさせて戴きます。お付き合いくださいませ。 」
さぁ、一人舞台の喜劇がはじまる。
淳子様・・・何を考えていらっしゃる?
おそらくはハイネを朗読されるのでしょう。
けれど、あのご様子は・・・・・・?
淳子が全生徒に向けて、いちばんうつくしい微笑みを向ける。
すべての生徒が言いようのない期待に包まれ、
かくれるように胸をあつくしたのが解る。
亦、それがまさに、薫子をかなしませる。
「 ハインリッヒ・ハイネ 抒情挿曲より、・・・
Im wunderschonen Monat
Mai・・・ええ・・『いと麗しき五月』ほか
わたくしによる抜粋を朗読させて戴きます。
蕾ひらく、いとうるわしき五月。 わがこころにも 恋ほころびぬ。
鳥うたふ、いと妙なる五月。 かの人に打ち明ける・・・
わが あこがれと・・・望みを。 」
――――淳子様…!
「 きみの頬、わが頬に寄せ 泪をひとつに合はせよう
きみの胸、わが胸に合はせれば 炎もひとつに燃えたてる
その炎に涙そそぎ ・・・わが腕が、きみを抱いたなら
・・・すべてをひとつに、死にましょう 」
「陽子さん…?」
「・・・・・・大丈夫よ。」
「でもあなた、お顔が真っ白よ?!」
「 静かにして」
「まぁ!」
「 愛らしききみの顔、昨夜も夢に現はれし
天使のやうにやすらぎたるが 痛々しくも、蒼褪めて・・・
…唇だけは、赤くうるむが 死の接吻にもう蒼褪める。
無邪気なひとみを洩れ出でる あかるき光も消ゆるの、か。 」
これは薫子だ。
あかるき光も消ゆるのか、ではない。
消ゆるだろう、が正しい。
あなたは、こんな形でしか、想いを告げられないのですか・・・・!
いま、わたくしは恭しくあなたを仰ぎ見ている。
何もかもが真っ白な光に占拠される。
誰にも、立ち入らせない。
「 わたくしはこの、わがこころ あの百合の蕚ふかく浸したひ。
ときに百合はいみじくも かの人の歌を響かせよう
歌は慄きふるえよう いつか、愉しい…あのときに
わたくしのため、してくれた あの接吻の、…そのように。 」
大丈夫、まだ 耐えられる。
いいえ、もう 耐えられない?
あの子を見ているのか、あの子の瞳に立たされているのか。
大丈夫。しっかりと見える。
まだ理性を手放しはしない。
「 やがて燃ゆる陽を 蓮はおそれ うなじを垂れ 夜の訪れを待ちわぶ 」
淳子様、あなたは本当に死んでしまう。
それは薫子の所為だけ?
薫子に出会う以前のあなたは、
ひとりで歩まれていたあなたは、最早死んでしまったというのですか・・・。
「 恋ふる月、光により揺り起こせば
・・・花のおも つつましくほほゑみひらく。 」
わがあこがれと、望み
「 花は凛と 空の高みを見つめては
頬くれなゐになやましく
おののき、 かをる 。 」
手放しはしない・・・薫子。
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